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「軍艦島(端島)を忘れないで」~亡き妻に贈る 第4話~

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軍艦島(端島)の向うに見える髙島
端島の向うに見える髙島

 懐かしい写真が出てきた。

 2004年、そう二十年前、高島町であった「みんなで創ろう~サマーキャンプin高島~」には、長崎市の小中学生約10人が参加した。

 それは、町内の探検や軍艦島(端島) クルーズを通し、炭鉱があった町の過去と現在を実感する。そして、夏を満喫しキャンプファイヤーでは石炭を燃やし、薪の煙にむせながらご飯を炊く。

 高島は端島の隣の島で炭鉱時代は同じ三菱の兄弟島であった。

 その時に質問した。「石炭」ってなーんだ?

 帰ってきた答えは「セキー タン」喉の薬〜。

時化の時は、端島に戻ることができない
時化の時は、端島に戻ることができない

 会場の大人は大笑いであった。そして、母さん(妻)も笑い転げた。その夜は、久しぶりの高島に一泊した。

 私も家内もかつては端島から定期船で高島高校に通っていた。そして、時化で端島に帰れない日は高島に一泊していた。

 そのため、久しぶりの高島への泊まりは、あの頃の思ひ出がお互いによみがえったのだ。

軍艦島、上陸へ

 翌日は、長崎市所有のこの船、中国船 「飛帆(フェイファン)」で軍艦島へ。

中国船「飛帆」
中国船「飛帆」

 軍艦島を前にガイドしながら、子供達が「あれは島じゃない(船)だ〜」と叫んだ言葉が印象に残っている。あれから二十年、彼らに端島への思ひ出は残っているだろうか。

 帰りの波の高さで船酔いの辛い思ひ出でないことを思いたいものだ。

 この頃は多くの新聞に掲載していただいた血気盛んな私であった。そして、支えてくれた母さん(妻)の笑い顔が今でも忘れられない。

端島小中学校「校歌」

軍艦島「端島小中学校」校歌

~♬ 高島の沖 巍峨(ぎが)として

   動かぬ船の名をえたる

   奇(く)しき端島の島の上に 我が学び舎はそそり立つ ♪~

(つづく)

2004年の新聞記事「ひと」
2004年の新聞記事「ひと」

これまでの寄稿は、こちらから(https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=21)

寄稿者 坂本道徳(さかもと・どうとく) NPO法人 軍艦島を世界遺産にする会 理事長

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