迷路のような小路が縦横に敷かれ、飲食店のドアを開けるには、紹介がないとかなりの度胸を必要とする場所。丸の内線四谷三丁目駅に降り立つと、かつての花街の跡にディープな飲食街が立ち並ぶ。そうここは、四谷荒木町だ。
「策(むち)の池」という池を中心にすり鉢状に開けた町。現在も津の守弁財天辺りがその名残である。最盛期には、料理屋13軒、待合63軒、置屋86軒、そして、芸妓252名が存在した。しかし、その繁栄は、空襲で焼け果て、昭和50年代には消滅していった。
大名屋敷が開放されて・・・
荒木町は、新宿通りと外苑東通りが交差する新宿区の南東部に位置している。江戸時代に美濃国高須藩主・松平義行の屋敷があった。また、その北辺である津の守坂通りも義行が摂津守(せっつのかみ)であったことに由来する。そして、この屋敷には滝を配した大きな池があった。乗馬用の策(むち)を洗ったことから「策の池」と言われた。
明治時代には屋敷が退き、池や庭園が一般にも知られるようになる。そのため、荒木町一帯は東京近郊でも名の知られた景勝地となり、風情ある花街となったのだ。
また、東京中心部、特に現在の中央線沿線の花街は珍しい。ここ荒木町と神楽坂がその代表例である。昭和期に入ると花街は「芸者町」と呼ばれるようになった。しかし、芸妓を置く遊郭と芸者のみの純化した花街は、一線を画し棲み分かれていった。荒木町は後者であった。
町域内には今でも車力門通りや杉大門通りの通り沿いや路地裏などに各種飲食店が散見される。それ故、かつての花街の風情を彷彿させる町並みとなっている。また、「策の池」は規模を縮小、津の守弁財天のところにわずかながら残っている。昭和30年代の雰囲気を色濃く残した町として訪れる人は多い。
呪文を唱えて、仲間入り
夕暮れともなると、どこからともなく、今宵の宴を楽しむ客が現れる。彼らは、店を間違えることもなく、行きつけの店のドアを開けていく。それは、呪文を唱えないと入れない、余所者を排除しているかのような秘密基地だ。
数年前、桜の花も散り始めた4月の夕暮れ時に訪れてみた。ほとんどのお店が夜の支度の準備中。ほどなく、だんだんと明かりが灯り始める。料理の匂いも感じるようになった。
名残惜しいが、今宵は少し離れたところで、古き仲間との宴が待っている。
次回は、この町に仲間入りするため、勇気を出してドアを開けてみようと思う。少し大人な町、しかし、次はいつになることやら・・・わからない。
(次ページでは、四谷荒木町の町歩きの様子をご覧いただけます)