花の島礼文島
礼文島観光の大きな魅力は高山植物。本州では 2000メートル級の高山でしか見ることのできない高山植物が海抜 0m から見ることができます。礼文島トレイル(自然の中を歩く道)は、8時間かけて島最北端のスコトン岬から島の西海岸約17㎞を南下する8時間コース、林道コース、岬めぐりコースなどいくつもあり、世代を超えて人気のトレイルとなっています。
1960年代後半から1970年代にかけて日本の若者たちは大きなリュックを背負って旅をしました。荷物を一杯詰めた横長のリュックを背負って歩く姿が「カニ」に似ていたことから「カニ族」と呼ばれ、多くの若者たちが礼文島に渡り、花の島礼文島を満喫したことでしょう。私はカニ族最後の世代。大学2年生(1974年)の夏休みに当時の国鉄周遊きっぷを買ってリュックを背負って上野駅から青森へ。そして、青函連絡船に乗って函館港へと初めて北海道の地を踏みました。私は東北海道を中心に周り、切符の有効期限の関係で宗谷地域までは行くことはできませんでした。
宗谷地方との出会い
仕事での宗谷地方と関りは1979年12月に始まりました。当時、全日空グループの旅行会社で入社3年目。全日空が本腰を入れて観光地活性化に取組む「宣言」とも言える個人旅行向けのバス(ビッグスニーカーバスと言いました。)を北海道に走らせた時の担当者として訪れました。
翌年(1980年)6月から稚内までバスを運行する準備のためです。羽田からの稚内直行便は就航する前ですが、航空会社の理想は「通年観光」。つまりオフがなく安定的にお客様が飛行機に乗ってくれる状態です。
北緯45度31分
当時、観光地と言うよりも礼文島や利尻島へ渡るための出発点となっていた稚内市周辺の観光素材をコースに入れて、少しでもバスの運行期間を延ばすことに苦労した記憶があります。宗谷岬や白鳥が越冬地へ渡る中継点となる大沼などを行程に入れて、ツアー名は「北緯45度31分の旅」と付けました。ボーダーツーリズムにつながる旅だったように思います。
すでに個人旅行の中心はカニ族からお洒落な若い女性たちになっていました。働いている方も多く、日程はせいぜい3泊4日なので1年目は利尻島のみ、2年目から礼文島をコースを加えたことを思い出します。夏の旅行商品の準備は前年の秋か冬。東日本海フェリー(当時)で真冬に利尻・礼文に渡り、天候悪化で宿泊客は私だけという民宿で数日過ごしたり、今は運航中止となっている礼文空港から稚内空港行の飛行機に乗った際には搭乗前に体重を測り、座席が決まったこともありました。
日本最北端の有人国境離島・礼文島
北方領土を除くと宗谷岬に有名な日本最北端の地の碑がありますが、宗谷岬から約1km北にある無人島弁天島が日本最北端です。礼文島は日本最北の有人国境離島で、利尻富士が有名な利尻島から北西約10㎞に位置しています。
礼文島には農業、畜産・酪農業がなく、お米・野菜・肉などは道内各地から入ってきます。人流・物流の要、フェリーの重要性がわかりますね。産業の中心は漁業と観光。
タラ・ホッケ・ウニ・昆布などを獲る漁業ですが人口減少・流出によって担い手は減り、咲き誇る高山植物が魅力的な観光ですが、来島する観光客はピーク時の年間30万名から現在は約12万人に減っているようです。私は2019年に礼文島で開催された境界地域研究ネットワークジャパンのセミナー(テーマは境界地域の交通と広域連携)に参加し、礼文島民にとって人流・物流維持の重要性を知りました。
さらにコロナ禍の時には島には感染症対応施設がなく、生命線でもある人流を制限せざるえなかった状況も知りました。人流を制限したのは他の多くの有人国境離島も同じでした。有人国境離島について多くの方に知って欲しいと願い、ボーダーツーリズムに取組んでいます。
・境界地域研究ネットワークジャパン(http://borderlands.or.jp/jibsn/)
礼文島の人流の歴史
江戸時代には鎖国政策の中で豪商・銭屋五兵衛が礼文島を拠点としてロシアと密貿易を行い、間宮林蔵の弟子だった松前藩士今井八九郎は礼文島そしてサハリン(樺太)や北方領土などの島々を測量しました。また、江戸時代後期に礼文島に移住した柳谷万之助は産業基盤である漁業(ニシン漁)を始め、今でも島の重要な先人として顕彰されています。
1885(明治18)年に小樽~増毛~利尻・礼文航路が開設され、礼文島のあらゆる分野において大きな役割を果たしてきましたが1993年に廃止されています。礼文島とサハリンを結ぶ航路はありませんが、1995年に開設された稚内・サハリン航路も2019年に経済的な理由で休止になりました。サハリン航路運航中乗船客の大半がロシア人で、稚内で買い物や食事、温泉などを楽しんでいたようです。
また、航空路は2003年に礼文~稚内線が利用者低迷により廃止され、礼文空港は2026年まで共用自体も休止が続く予定で、礼文島とつながっているのは稚内・利尻とを結ぶハートランドフェリーだけとなっています。
定住者がいる、いないで離島を有人と無人に分けますが、離島を「孤島」にだけはしたくないですね。
稚内とサハリンが見える島
国境地域からは天気次第で隣の国・地域を見ることができます。対馬からは釜山、与那国からは台湾、そして稚内からはサハリンが見えます。良く晴れた日という条件が付きますが、標高490mの礼文岳からは稚内が見え、そしてサハリン、その手前に浮かぶモネロン島が見えます。日本と他国が同時に見えるのは礼文島だけではないでしょうか?
美しい高山植物が咲く礼文島ですが、日露戦争時にバルチック艦隊を監視するための見張所が設置され日本最北端でロシアと向き合う最前線の場所でした。今もその緊張は続いているのではないでしょうか。
礼文島と同じようにモネロン島も自然豊かでロシア人観光客に人気なのだそうです。いつの日か再び礼文岳から二つの島も眺めてみたいものです。
(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=17
寄稿者 伊豆芳人(いず・よしひと) ボーダーツーリズム推進協議会会長