文京区には、大小合わせて、百以上の坂が存在している。
そして、その頂きの町が本郷である。東京大学をはじめとする文教の町でもある。東京都の区分の中でも「山の手」とされる当地は、文京区の東半分を占める。
かつて、湯島郷に集落ができたために、湯島本郷と称されるようになる。戦国時代には、既に本郷と名乗っていたようだ。
一方、明治から昭和になると、数多くの文人が住居を構え、今でも旧宅が残っているものもある。
江戸城下の北限の町
江戸時代に本郷には「かねやす」という歯磨き粉を売るお店ができていた。ちょうど、江戸城下の北限にあたっていたために「本郷もかねやすまでは江戸のうち」という川柳も誕生した。
そして、当時の町並みは、享保大火の復興に際し、大岡忠相が「かねやす」から南側の建物の土蔵造りを奨励し、萱葺き屋根を禁じたものとなった。
その後、かねやすは、洋品店に業態を変え、創業地の本郷三丁目にビルを建てている。1階はかねやすの洋品店、2階以上はテナントとなっている。しかし、現在、ビルはそのまま残っているものの、かねやすの店舗は、営業を休止している。
度重なる大火や地震、戦災を経ても同一店舗が400年にわたって存在するのは珍しい事例だ。
由緒ある坂の町に、学生たちが集まる
さて、坂の頂きの町ゆえ、数多くの名前の付いた坂がある。
不忍通りから上る道筋には、弥生土器の発祥・弥生坂や切通坂、歌のタイトルにもなった無縁坂などがある。一方、水道橋方面からは、壱岐坂や真砂坂という大通りが幅を利かせる。そして、その内側が本郷の町である。文人たちが、数多く住んでいた菊坂や鐙坂、胸突坂、梨木坂などは、小説の中にも記される坂である。
また、このエリアは、かつて、東京を訪れる修学旅行生が宿泊する旅館がたくさん建っていた。しかし、時代を経るに従い、和室の旅館から洋室のホテルにニーズは変わり、廃業された旅館が少なくない。今では、数軒を残すばかりだ。
旅館や寄宿舎が集まってきたのは、やはり、東京大学がこの地にできたことにあるようだ。
ここは、文教の頂き
江戸時代の加賀藩上屋敷の跡地に、1877年に現在の東京大学が移転してくる。そもそも、本郷周辺は、江戸時代に「昌平坂学問所」が設置されていた。そして、この周辺には、現在のお茶の水女子大学や筑波大学、東京学芸大学といった国立大学の創業当時の教育施設が置かれた。「湯島聖堂」には「日本の学校教育発祥の地」の碑文もある。
また、東京大学の別名とも言われる「赤門」は、旧加賀屋敷御守殿門を指す。赤門は、焼失した場合、再建できないという慣習で作られた。幸いなことに、これまで、この赤門は災害などを免れた。そのため、現存する国の重要文化財として指定されている。加賀前田家は、この赤門を「加賀鳶」という独自の消防団を置いて守ったという。
再開発によって、変わりつつある町
前述のように、数多くあった旅館は、そのほとんどがマンションやオフィスビルに変わった。学生たちが何人も下宿していた寄宿舎もなくなっている。
まだまだ、木造建築も残る本郷界隈。しかし、徐々に鉄筋コンクリートのビルに変わっていきそうだ。
戦後建てられた木造建築は、その耐久年限を越えるようになった。「残すべきだ」「いや、防災だ」と内外問わず、議論を繰り返している。しかし、耐久年限を越える建物は、いつ何時、崩れるかわからない。昨今、全国的に、古木が朽ち倒壊する事例も増えている。また、耐震補強が足りずに、地震で倒壊する古い建物も少なくない。一方、「大正メルヘン」「昭和レトロ」などと言われ、そのような建物巡りを好む方々も多い。
この相反する議論は、そこに住まう人々の考え方が優先されなければならないと考える。外から訪れる者は、一過性のものである。それ故、観光客のために「残すべきだ」と言う。一方、住まう者は、常に、その脅威と背中合わせなのである。
観光は、平和産業である。訪れる者と住まう者との合意がなければ、成長していかない。地域住民不在の議論は、成就しない。我々は、そのことを肝に銘じていかねばならない。
お互いがお互いを認め合うことこそ、一番大切なことであり、観光業を未来までつなげていくことになるだろう。
本郷界隈、今昔物語・・・今の景観を!
(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8
取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長