日本と朝鮮半島の間には、古代から文化や暮らし、仏教伝来など深い交流があり、朝鮮からの帰化人も多かった。一方で、戦火を交えた歴史も残っている。その1つが、16世紀末に豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役だ。このうち、文禄の役(1592年、壬辰倭乱)で、朝鮮側にくみし、功績をあげた日本人武将がいたことは、あまり知られていない。その武将、金忠善将軍(日本名・沙也可)が祀られている達城韓日友好館 鹿洞書院を訪れた。
鹿洞書院は韓国第4の都市、大邱広域市の中心部から南へバスで約1時間の達城郡嘉昌面の現在地に1972年移築された。敷地内にある友好館は2012年に完成した。
本題である沙也可に話を戻そう。沙也可は文禄の役で鉄砲隊の一員として戦に臨んだが、「名分なき戦いは人々を不幸にするだけだ」との思いから朝鮮側に投降、帰化し、火縄銃と火薬製造などの技術を伝えた。その功績から大臣級の高官として遇せられ、家臣とともに友鹿村で静かな余生を送ったと言われる。
司馬遼太郎の紀行や神坂次郎の歴史小説で描かれた沙也可
ただ、金忠善が本当に日本の投降将兵、沙也可であるかは諸説ある。現在では戦国時代の紀州に暮らしていた「雑賀」と呼ばれた人々の一員であるとの説が有力となっている。ちなみに帰化した日本人武将が存在したことを初めて伝えたのは司馬遼太郎の『韓のくに紀行』だった。
秀吉鉄砲隊の猛将だった沙也可がいかにして、朝鮮軍の将軍に転身したのか。なぜ、そうした行動に走らせたのかは、神坂次郎の歴史小説『海の伽耶琴』に詳しく描かれている。
韓日友好館には、道路工事中に発掘された火縄銃や金将軍の人柄と思想が綴られた慕夏堂文集といった資料などが展示されている。400年以上前の時代に、この地で活躍した日本人がいたことを伝え日韓・韓日友好について学ぶ貴重な場となっている。