近江の歴史と山城に魅せられ、小谷城と上平寺城を守る足軽・千が、その魅力をざっくり紹介していく連載の2回目。今回からぼちぼち、城の見方や近江の城について語っていきましょう。ただの「城オタ」です。引き続き、お手柔らかにどうぞ。
浅井家の居城、小谷城
戦国時代、北近江(現在の滋賀県長浜市・米原市あたり)を治めていた京極氏は、現在の米原市上平寺に居城を築きます。家臣であった浅井氏の台頭によって、北近江守護は現在の長浜市湖北町の小谷城に移り(1524年頃)、京極家は一旦没落。浅井家は、小谷城を中心とした町づくりによって隆盛を極めますが、1573年、織田・徳川軍との「姉川の合戦」によって落城、その後、戦功を買われた羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉によって新しい近江が開かれ、ひいては日本の歴史が始まっていきます……以上がざっくりとした北近江の戦国期の流れです。
浅井家は、初代の亮政(すけまさ)、二代目久政、最後の当主長政の、三代50年、だいたい1520年代から、落城の年の1573年(久政と長政が城で自刃)まで続いた北近江の戦国大名家で、当地を治めるために築いたのが小谷城です。
小谷城は、長浜市の北部に位置する小谷山に築かれました。ふもとには、中山道から分かれた北国街道、北国脇往還といった街道が敷かれ、関東方面から尾張、美濃を経由して北陸方面へ抜ける交通の要衝です。さらに、びわ湖の水運も利用すれば京の都にも地の利が抜群。「近江を制する者は戦国を制す」と言われているのは、この立地の良さからなのでしょう。織田信長が、妹のお市(いち)を長政に嫁がせたのも、この地を押さえたいため、という説が有力です。
ちなみに、長政とお市との間に生まれたのが、かの有名な、茶々・初・江の「浅井三姉妹」で、三女の江は、2011年のNHK大河ドラマ「江(ごう)~姫たちの戦国~」の主人公です。茶々は秀吉の側室(2番目の正室?)、初は京極高次の正室ということも付け加えておきます。
山と谷全体からなる山城
では、いよいよ小谷城の姿を紐解いていきましょう。
小谷城は、小谷山山頂部の495メートルを起点に、東と西の尾根とその間の清水谷(きよみずだに)の三位一体、すなわち山と谷全体をひっくるめて「城」の様相を呈していると言われています。まさに「山城」ですね。
山頂部は「大嶽(おおづく)」と呼ばれ、初代亮政の時代の「本丸」がありました。大嶽を拠点としていた時代に西側の尾根上にいくつかの「曲輪(くるわ)」が築かれ、二代目、三代目に引き継がれていく途上、落城するまでは東の尾根上が開発され、長政時代には、本丸の機能のほか、番所、御茶屋、御馬屋、桜馬場、大広間、中ノ丸、京極丸、小丸、山王丸など、多くの曲輪が展開されました。
本丸付近は標高350メートルほどで、山の中腹と言っていいでしょう。ちなみに、曲輪が尾根上に並んで配置されている城のことを「連郭式」と呼びます。
現在は、300メートル付近の「番所」まで、林道を使って車で登ることができます。また、ふもと部分の清水谷には、平時の際に生活の拠点としていたと伝わる「お屋敷」や菩提寺としてそばに置いたとみられる「観音寺」「徳勝寺」などの寺社仏閣、家臣団屋敷群もこの辺りに集められ、民・店屋が軒を連ねた城下町までも整備されていたことが分かっています。
現在の清水谷の入り口には、「小谷城戦国歴史資料館」がありますので、小谷城や浅井家の予習復習にご活用ください。無料の駐車場もあり、登城の際にはこちらが便利です。
見方が分かれば「土の城」はおもしろい
さて、文中で何度か出てきている「曲輪」という言葉は、山城・土でできた城の遺構を見ていく上での専門用語です。
山城の「遺構」は主に、
➀曲輪
➁土塁
➂石垣
から成ります。この3つのワードを覚えておけば、だいたいの山城は楽しめるでしょう。
さらに言えば、
➃切岸(きりぎし)
➄竪堀(たてぼり)
が飛び出せば、猛者に一歩近づきます。
曲輪は、山の斜面や尾根を切り開いて作った人工の「平たん地」のことです。ここで生活したり、見張り番を置いたりするスペースですね。小谷城には、山全体に300を超える曲輪があります。人が1人立てるくらいの小さなものから、最大は「大広間」という曲輪で東西約 35m× 南北約 85m、約3,000平方メートルの広さがあります。
山を切り開いてできた土砂を盛り上げて壁状にし、敵の侵入を防ぐための施工の跡が土塁です。小谷城は築城から450年もの年月が経過していますから、土塁の高さも低くなってきていますが、それぞれの曲輪で土塁と見られる土の高まりを確認することができます。特に、「京極丸」の土塁は、高いところでは2メートル近く、幅は1メートルほどあります。土塁上を歩くこともできます。
石垣は、私が最も好きな遺構です。最近の研究で、小谷城は「石垣の城」だったことが分かってきましたので、追々詳しくご紹介できればと思います。山王丸付近の大石垣、大広間に入る手前の石段、本丸の石垣のほか、いたるところに石垣の残骸があり、わくわくします。
切岸というのは、山の斜面を更に傾斜をつけるように削っている部分のことで、敵が下から取り付くのを防ぐためと、斜面の横の移動を妨ぐ効果もあります。「馬洗池」という人工の池から上層部を見上げると「桜馬場」という曲輪につながるのですが、この見上げた部分の斜面が見事な切岸になっています。
横移動を困難にする施工については、竪堀もその代表格です。斜面に対して並行に、何本も溝を掘り、つまり「畝」を作って横移動をさらに阻止する遺構を「畝上竪堀」と呼びます。「月所丸」という曲輪の付近で見ることができます。斜面に対して、指で引っ掻いたように何本もの筋が通っている様は圧巻です。
いかがだったでしょうか。現地を訪れたら、以上のような文言だけでは表せない様々な情報が目に、耳に、五感に飛び込んでくることでしょう。
私に山城の魅力を一番に教えてくれ、今も師匠の1人として仰いでいる、長浜城歴史博物館長や学芸専門鑑などを歴任した歴史研究家・太田浩司さんからいただいた大好きなコトバに、「山城や歴史の現場に来れば、往時の人々と時間は共有できないけど、空間は共有できる」というのがあります。
山城は、何百年も前からそこにある「ホンモノ」の城。「ロマン」もさることながら、「リアル」な代物なのです。空間を共有できているこの感覚を常に心に止め、あの人も見た景色をいま自分も見ているという幸せを感じながら、今日も山城を歩きます。
次はあなたもご一緒に。