2020年7月の人吉豪雨災害による球磨川氾濫の直後、北海道総合博物館の展示コーナーに密かにポストカードを並べた。カードには、災害で壊滅した肥薩線を走っていた観光特急「いさぶろう・しんぺい」と「かわせみ やませみ」が描かれている。ずっと、列車が動いていた八代駅から吉松駅までの復旧を願っている。しかし、残念ながら、目途はまったくたっていない。
肥薩線を走る・・・
クリーム色に赤の車体の急行「えびの」号。都城から実家のある熊本まで、物心がついた頃から小学生の間まで(1965~1974年頃)、盆と正月に毎年のように乗っていたディーゼルカーだ。最初の頃、これは蒸気機関車だった記憶もかすかに残る。
「えびの」号の上り列車に都城から乗ると、吉都線が始まる。私の家の近く、日向庄内駅を過ぎ、しばらくすると、左側に霧島連山が見える。小林駅からの車窓はとりわけ素晴らしい。風景は平野に変り、加久藤駅(現えびの駅)あたりから、今度は右側に山並が見えてくる。矢岳高原だ。その向こう側に熊本がある。
交通の要衝、かつての鹿児島本線
しかし、京町温泉を過ぎ、列車は一度、鹿児島県に入る。吉都線から肥薩線へと乗り入れるには、吉松駅を通らねばならない。かつて、吉松は鹿児島と熊本を鉄道で結ぶ大動脈の要であった(1909年開通)。そのため、当時の線区名称は「鹿児島本線」。そして、ここが肥薩線の名前に変ったのは、水俣や出水を抜ける海線が開通した後のこと(1927年)。それでも宮崎と熊本を結ぶ幹線として、私の幼少頃は無二の存在であった。
一方、矢岳高原を越える道路は、名ばかりの国道、狭く舗装など施されていない。我が家も一度だけ、マイカーで「加久藤越え」にチャレンジしたが、子ども心に感じた「崖下に落ちるかもしれないとの恐怖」はいまなお忘れがたい。「えびの」号だけが、実家と結ぶ糸であった。
吉松駅に着くと列車が逆方向に動く。当時は4人掛けの向かい合ったボックスシート、反対方向に動くというのが不思議であった。もっとも、「えびの」号はその後、何度も進行方向を変えるのだが・・・。
吉松駅、乗り継ぎ時間の密かな楽しみ
人吉災害が起こるまで、近年、肥薩線の旅をよく楽しんでいた。熊本の実家からわざわざ肥薩線に乗って、鹿児島に行ったり、都城から普通列車を乗り継いで熊本に戻ったこともある。
「えびの」号の頃は通過駅に過ぎなかった吉松駅に乗り継ぎのため、1時間や2時間足止めをくうことも少なくなかった。小さな食堂や記念館、そしてSL展示がある。まさしく、この駅がいかに昭和の時代に活躍していたか肌でわかる。そして、駅向かいの吉松温泉。貸切風呂もあるこの温泉は乗り継ぎの時間の楽しみとなった。なんだか、時間の流れがとても緩やかな空間だ。
ある日、八代駅での乗り換え時、車内に荷物を忘れたことがあった。それを、吉松駅を降りて気づいた私は、八代駅に電話をした。電話をそばで聞いていた温泉のご主人が言った。「八代からですか?それはずいぶん遠くから・・・」。ここから熊本は、いまでも遠い。
(これまでの寄稿については、こちらです) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=20
寄稿者 岩下明裕(いわした・あきひろ) 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授