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筑豊で「黒いダイヤモンド」を探せ! 第5章 炭坑王の屋敷には~飯塚市・旧伊藤伝右衛門邸

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飯塚市は、福岡県中央部に位置する。福岡市へは約35km、北九州市には約40kmの距離だ。直方市同様に中央に遠賀川が流れ、中心街を形成している。町中に長崎街道が走り、飯塚宿と隣には内野宿が整備された。街道が作られると同時に農業地帯から商業地域へ変化する。

明治期に入り、石炭発掘が盛んとなり、直方市、田川市と共に筑豊三都と呼ばれるようになる。全国から炭坑労働者が集まり、人口が大幅に伸びていった。しかし、石炭産業の衰退は、人口減少を呼び、大学誘致によって、学生層の人口は増えたが、2000年代以降、再び減少に転じている。

炭坑王の屋敷は

伊藤伝右衛門邸は、この地にかつての繁栄を刻んでいる。筑豊では、三傑と呼ばれる石炭産業の雄が存在する。麻生太吉(1957-1933)、貝島太助(1845-1916)、安川敬一郎(1849-1934)である。伝右衛門(1861-1947)は、父親の伝六と共に安川家の援助を受けながら、炭坑経営に乗り出していた。そして、1899年に父伝六が病没すると家督を継ぎ、1896年、炭坑の諸機械を製造する合資会社・幸袋工作所を創立し、社長に就任する。

この邸宅は、大正時代中期から昭和初期にかけて自身の本邸として造営された。また、正門は福岡市天神の赤銅御殿から移築された。伝右衛門の死後、市民の保存運動により飯塚市所有となり、2006年1月に飯塚市有形文化財に指定される。そして、翌年から「旧伊藤伝右衛門邸」として有料で一般公開された。続いて、庭園が2011年9月に国の名勝に指定された。

中庭から望む荘厳な邸宅
中庭から望む荘厳な邸宅

邸宅南側の馬車廻しを中心とする広場、建築群に挟まれた中庭、邸宅北側の主庭の3つの部分で構成。その中でも、主庭は主屋からの展望をも考慮した回遊式庭園である。二度目の妻・柳原白蓮が嫁入り道具として持参した石灯篭も残っている。柳原白蓮とは、大正から昭和時代にかけての歌人。本名は宮崎燁子(あきこ)、大正天皇の従妹にあたる。社会運動家宮崎龍介と駆け落ちした白蓮事件でも知られている。

花嫁を迎える贅を尽くした造り

伝右衛門は、50歳にして25歳の若き花嫁を迎えることになった。そのため、日本建築の粋を集めて改築したのが、この「旧伊藤伝右衛門邸」だ。和洋折衷の造りを施された邸内は、どの部屋も細部にまで華麗で贅を尽くした屋敷に仕上げられている。特に白蓮の居室(2階)は、日本庭園を一望できる見晴らしの良い部屋である。その内装は、銀箔で作られた押入れや水上泰生が描いた蝶をあしらった天袋などの意匠がこらされている。

白蓮の居室、窓の外には庭園が広がる
白蓮の居室、窓の外には庭園が広がる

伝右衛門と白蓮は、約10年間の時をこの地で共に過ごした。しかし、事件後、白蓮は戻らなかった。しかし、部屋はそのまま残されている。また、敷地面積約7,570㎡、建物延床面積約1,020㎡という広大な邸内には、ダイヤを象った欄間のステンドグラスや広大な回遊式庭園が広がる。贅を尽くした建築美と炭鉱王伊藤伝右衛門と歌人白蓮の波乱に満ちた恋物語を今に伝えている。

名残は無くなったというが・・・

さて、飯塚では、石炭産業の最盛期の名残は、今やほとんどなくなった。しかし、市の中心部から南方には、炭坑の象徴ともいえるボタ山が残っている。JR飯塚駅から約1.2kmの距離にある住友忠隈炭鉱のボタ山だ。高さ121m、敷地面積22.4haの大きさは日本最大級。そのため、遠方からも形の良い姿を見せ、別名「筑豊富士」とも呼ばれる飯塚のシンボルでもある。

住友忠隈炭鉱のボタ山(遠賀川越しの遠望する)
住友忠隈炭鉱のボタ山(遠賀川越しの遠望する)

また、明治末期以後の遠賀川流域には、50もの芝居小屋が建てられた。その中でも最も規模が大きかったのが飯塚の「嘉穂劇場」の前身である「中座」だ。麻生家が土地や資金を提供して1922年に開場した。多くの炭坑労働者や家族を楽しませる興行を行っていたことも繁栄の一つでもある。しかし、2003年の豪雨やコロナ禍によって休館を余儀なくされた。現在は耐震補強のため、引き続き、休館のままだ。

嘉穂劇場は、2006年11月に登録有形文化財に登録される。また、翌年、近代化産業遺産群33「産炭地域の特性に応じた近代技術の導入など九州・山口の石炭産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群」にも認定されている。生きたまま鼓動を止めてしまった劇場、一日も早い再開場を望みたいものである。

広域連携こそ、次なる一手につながる

筑豊三都の町に触れて感じることは、早い時期からの石炭産業からの脱却が、地域に力を与えていることである。序章でも記したことだが、北海道の炭坑町は、炭坑からの脱却が遅れ人口流出が激しい。それに対し、筑豊の町は、産業構造の変革や学問・文化施設の誘致によって、新たな命をつないでいる。福岡や北九州という大都市にも近く転換しやすかったのであろう。地の利は、これから先も生かすことが可能だ。

独立独歩で石炭から脱却してきた筑豊三都である。しかし、これからは、点から線、線から面へと地域が連携し、近現代化を牽引してきた歴史をつなげることが重要である。それが実現すれば、新たな光は自ずから見えてくると考える。

(つづく)

暖炉を配した洋間
暖炉を配した洋間
和の粋を集めた畳の間
和の粋を集めた畳の間

(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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