八代を創造(たがや)した石工たちの軌跡 ~石工の郷に息づく石造りのレガシー~
八代平野の干拓に貢献した石工
熊本県八代市では阿蘇山の噴火活動によって堆積した凝灰岩や良質な石灰岩を利用し、八代城の石垣やめがね橋など、古くから石工による町づくりが行われており、令和2年6月には「八代を創造(たがや)した石工たちの軌跡~石工の郷に息づく石造りのレガシー~」という物語が日本遺産に認定されました。
現在では、熊本県内有数の農業地帯となっている緑豊かな八代平野も、以前は「お国一の貧地」と呼ばれるほど、平野部が狭く、農業には向かない湿地と干潟が広がる地域でした。
そのため、この地では農地開拓のために、江戸時代から昭和初期にかけて大規模な「干拓事業」が幾度となく行われ、その際、巨石を用いて築かれた「大鞘樋門(おざやひもん)」に代表される干拓樋門、干拓地を潤す「用水路」、橋の建設などに大きく貢献したのは、岩永三五郎を中心とした石橋の先端技術集団でした。

干拓とは水面を堤防で囲って排水し、海底の肥沃な土地を農地として利用することですが、古くは戦国時代の加藤清正に始まり、肥後藩主の細川氏が文政元(1818)年から本格的に着手しました。細川氏は備前藩(現岡山県)が児島湾の干拓で農地を増やしたことを知り、備前藩主の池田氏に干拓技術の伝授を持ち掛け、一方の池田氏は肥後の「石橋の技術」伝授を交換条件として話がまとまったのです。
備前の石工が伝えた干拓技術
早速、備前石工の高野貞七一行を迎えて、鏡町両出から千丁町にまたがる四百町新地の干拓を開始、潮止用堤防造りに着手しました。肥後の庄屋・鹿子木量平(かなこぎりょうへい)が行った測量に基づき、区画整理が行われ、掘り上げられた低地を潮遊地とし、石積みの強固な潮止用樋門が完成します。量平は天保12(1841)年に亡くなりましたが、地元の人々は量平の偉業をたたえるために、没後70年にあたる明治43(1910)年、彼の墓の脇に文政神社を建て、量平を祭神としてまつり、現在でも地域住民は感謝の心を伝えています。
この樋門には、1日2回の潮の干満時の水圧を利用して扉が自動的に開閉するといった合理的で、高度な技術が用いられています。備前から伝えられたこの高度な干拓技術は、肥後の石工である岩永三五郎に引き継がれ、三五郎は八代郡中石工共惣引廻役(取締役)として多くの石工を率い、樋門、用水路、橋の建設に大きく貢献、八代の干拓地は次々と広がっていきました。

石工同士の技術交流
一方、干拓技術を伝え終えた備前石工の勘五郎と茂吉は、殿様同士の約束である技術交流のために菊池に残り、架橋の技術を鏡町に残る「鑑内橋」などを架けた三五郎より学んだと伝えられています。すなわち、八代の肥沃な干拓地は、備前の干拓技術と肥後石橋架橋の技術者の交流によって生まれました。

現在、名石工・岩永三五郎は干拓地の七百町新地の東端に祀られ、明治から昭和にかけても続けられた干拓事業を見守りました。
名石工・岩永三五郎と「種山石工」の祖と呼ばれる林七
八代の石工は、岩永三五郎に代表される氷川下流域の野津の集団と氷川中流域の種山の集団に分かれていましたが、双方の石工衆の技術交流は行われていました。中でも有名な「種山石工」の祖は、岩永三五郎の義父にあたる藤原林七という元長崎奉行所の武士です。林七は長崎に架けられていた眼鏡橋を見て、アーチの中に支柱がない橋の建造技術に関心を持ち、出島に滞在していたオランダ人と接触、石橋の建造技術に必要な円周率の計算方法を学びました。
しかし、鎖国中の当時は無断で異国人と接することは禁じられており、国禁を犯した罪で身の危険を感じた林七は、長崎から逃れて肥後藩種山村(現熊本県八代市)に移住、藤原姓を捨て種子山姓を名乗り、農業に従事する一方、独自のアーチ理論を編み出して文化元(1804)年、現在の八代市東陽町に石橋3基(鍛冶屋上・中・下橋)を建造しました。

これが「種山石工」の始まりとされ、この瞬間から“石を積上げる”だけの技術しか持たなかった種山の石工は、“石を架け渡す”技術を身に付けて、後世まで讃えられる『種山石工』となりました。
「技術の侍」八代の石工が残した名橋
東陽町には1世紀以上の風雪に耐えて、今も当時の石橋が数多く残っていますが、この先人の知恵と技が息づく石の文化を伝え、新しい地域文化を創造する目的で「東陽石匠館」が設立されました。その建物は、世界的建築家・木島安史氏の設計で、地元でとれる凝灰岩を利用しており、「種山石工」の歴史が紹介され、全国の石橋の資料も多数展示されています。

「種山石工」は「先人の残した技術と心意気を絶やさない」という信念を持っており、それは己の技を磨き、人々や故郷のために丈夫な橋を架けるといった「義」の精神でした。実際、林七の孫にあたる名工、橋本勘五郎(丈八)は、東陽町を代表する「笠松橋」や国宝に指定された「通潤橋」などの架設を成功に導き、全国に名声を轟かせるまでに至りました。
「種山石工」は、剣を持つ武士ではありませんでしたが、石の技術をもって人々の命を守る「橋」を築くことで、武士道精神に共通する「信頼」「誇り」「奉仕」を体現した「技術の侍」であったと言えます。
※メインビジュアルは、東陽町の笠松橋と平成芭蕉
寄稿者 平成芭蕉こと黒田尚嗣(くろだ・なおつぐ)クラブツーリズム㈱テーマ旅行部顧問/(一社)日本遺産普及協会代表監事