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「画になる旅の趣」肱川街道写真紀行 第1章 大洲城下と二つの在郷町

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第1章 大洲城下と二つの在郷町

 周辺を800m~1000m前後の山々に囲まれ、そこに全長約103㎞で474本もの支流を抱えて肱川が流れ込む城下町大洲。20km河口の長浜港は、後の江戸時代に「伊予の小丸太」と称され日本三大木材集積地のひとつとされるほどの賑わいを見せた。上流から木材や炭などを河口へ運び、長浜港からは味噌・醤油・塩などの生活物資を上流へ運ぶ「舟運」は、流域の郷山に大きな経済効果をもたらした。大洲城下では、河港(高河原)での物資の積み下ろしなども盛んに行われた。一方で1546年(天文15年)から1584年(天正12年)までの38年間は、長曽我部元親の四国統一などに端を発した混乱が続き、この地域一帯の民百姓達を困らせていた。

 大洲旧記によると、この頃、五十崎町では既に二十日市が形成され、1586年(天正14年)頃には内子町でも六日市や二十日市が開かれたと記されている。このことは、それまで小規模ながらも開かれていた門前市が、次第に定期市へと発展していったことを推測させる。

 1605年(慶長10年)頃にこの地域を治めていた藤堂高虎の家臣で町奉行の田中林斎が塩の専売所を造った「塩屋町(現・志保町)」を中心として、渡し船の発着場もあった東横丁や本町三丁目、中町三丁目あたりが「町人町」として栄えたことが推測できる。侍屋敷も町家も、こうした形態は1595年(文禄4年)の藤堂高虎から1609年(慶長14年)にその後を治めることになった脇坂安治の時代に整ったとされる。その後天下統一を果たした徳川家の支配による藩政時代がスタートするが、当時の大洲藩では、1642年(寛永19年)に新谷一万石の家中が移り武家屋敷が整備され「陣屋町」を中心とした新谷藩が形成された。その領地にあったのが内子町である。

 内子町は、肱川水系小田川(麓川)の流域山間地でありながら商業地でも栄えた町並で観光地としての人気も高い。大洲藩の専売品でもあった「和紙」と「木蝋」の生産地として大いに栄え、特に、藩の半紙漉業者の6割強が居住していたとされる。後の1760年(宝暦10年)には紙役所まで設置され、その統制にあたるほどだった。ただ、これらの繁栄は貧富の差を生み出し度々百姓一揆の舞台になった。藩政時代の経済政策は領内単位での封鎖を基本方針としており、領内の自給自足体制を維持することにあった。領内産業の保護のため、他領品の移入を押さえる一方で、米穀類や主要産物の統制を行っていたのだ。しかし、これらの経済政策は長続きせず、著しい消費生活の増大や商品の多種多様化が進む。貨幣経済の発達と地方への波及は、藩の財政を根底から揺さぶってしまう。八代将軍徳川吉宗が「享保の改革」において財政立て直しにとりかかったこの時期、予州(伊予)においては松山、宇和島、大洲の各藩が木蝋生産に力を入れ始めたとされる。

 大洲城下裏町三丁目(現・おはなはん通り)と旧・塩屋町通り(現・志保町)が交差する大洲城下の中心地。ここから南へ行けば宇和島街道で、鳥坂峠を越えれば、そこは海抜が200mを越える宇和盆地である。戦国時代は西園寺氏が治め、幾多の合戦を経た後に藩政時代は宇和島藩の領地として、「多田組」と「山田組」に属していた。純農村地帯として藩の米蔵の役目を果たし、また、街道沿いの宿場町としても発展した。1651年(慶安4年)には、黒瀬城の山麓に形成されていた松葉町を大念寺山麓へと移し、宿場町を形成。後に松葉町は卯之町と改称され、以後、街道随一の在郷町として発展していった。1800年以降幕末にかけてのこの地域は、医者を目指した二宮敬作[1804年(文化元年)磯津村磯崎(現・保内町)生まれ]を始め、数々の素晴らしい人材を輩出している。特に、1858年(安政5年)から11年間にわたって卯之町で私塾を開いた左氏珠山は、この間、漢籍等の高度な学問を授け、宇和に近大教育の下地を築いたとされる。後に、小説『坊っちゃん』に漢文の先生として登場するが、向学心豊かな彼の弟子達や町民達の手で建てられた学校が、「孟子」の言葉から名付けられた、現在の「申義堂」である。

 遠く藩政時代からの面影を色濃く残す大洲城下とふたつの在郷町。そのままの姿で送り届けてくれた先人達の想いに敬意を表す。「画(写真)になる旅の趣」は、訪れる人々のこころを踊らせる。町人(まちびと)達とのふれあい(交流)が忘れかけたニッポンへと思いを馳せるのだ。

 人々の命を育んできた肱川の源流を擁する西予市宇和町、肱川水系小田川(麓川)流域内子町および石畳、その中間に位置する大洲城下は、大洲藩六万石の中心地として歴史を積み重ね、和紙や木蝋を中心とした営みを形成し発展してきたのだ。

 風光明媚なその自然を背景に、一時代の繁栄を今日にしっかりと伝えている三者三様の町並と、これらを結ぶ「肱川街道」は、今も多くの観光客が訪れ、行き来する。

(つづく)

寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう)街づくり写真家 日本風景写真家協会会員

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  1. まぁちゃん
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    川と共に地域を発展させてきた古の先人達の貴重な足跡… 形あるものはいつか無になる様に 私たちが出来ることをしていきたいなと強く思いました… 写真から伝わる先人達からのメッセージのようなそんな気持ちになりました。 時の流れには逆らえないけれど、今をこうして切り取って後世に伝える使命 をも感じました!

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