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軍艦島、守り・語り継ぐ観光と未来

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「軍艦島」 正確には長崎県長崎市高島町端島の俗称である。

「場 所」 長崎港から約18キロの海上にある。

「大きさ」 南北約480m 東西約160m 面積約6.3ha 周囲約1.2km 海抜47.7mの小島。

「歴 史」 1810年頃石炭が発見され、佐賀藩が小規模の採炭を行い、明治23年、三菱が島全体と鉱区の権利を買い取り本格的海底炭坑として、操業が開始され、島直下及び周辺の海底から良質の強粘結炭を採掘し、主として八幡製鉄所に製鉄用原料炭を供給する島として、国家の手厚い保護を受けてきた。しかし、国のエネルギー転換政策の推進に伴い、1974年1月15日正式に閉山し、同年4月20日をもって島民は皆島を去ったのである。

そして49年の歳月が流れた……

 2015年7月5日には軍艦島(端島)を含む近代化遺産が「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」として世界文化遺産として国連教育科学文化機関(ユネスコ)に決定した。

 産業遺産とは、「歴史的・技術的・社会的・建築学的、あるいは科学的価値のある産業文化の遺物からなる」と定義している。しかしながらその定義に合うような産業遺産を私たちは、どれだけのものを知っているのであろうか。近年、産業遺産という言葉が使われ始めるまでは多くの人々が指し示していた「廃墟」の存在であったのかもしれない。

 使われなくなった廃家、工場跡、鉱山跡、病院、ホテルなど数え上げればきりがないが、かつてはそこで産業を営んできた場所、物がいつのまにか忘れ去られ現在においては何の役目もしないもの。そう言ってしまえば何の価値も見出せないように思える。

 常に新しさや未来を求めていく時代には、消えていった場所や残っていても過去の痕跡を残さないものに私たちは価値を見出すことなど考えもしなかっただろう。

 しかし今そういった産業遺産を見直す動きが出てきている。

「軍艦島」はまさにその象徴

 産業遺産を見る、感じる、そしてその時代の息吹を聞き取ることでただの廃墟が大きな意味を持ち始めるのかもしれない。

 軍艦島(端島)は「石炭を掘るためだけに作られた」島である。石炭が原料となり、鉄を作り、船を作っていく。つまりは産業革命の源のなったのが石炭である。

 その石炭を掘るためだけに人工的に作られたのが軍艦島(端島)だ。

 それ以外の産業はない。一つの目的だけに島が拡張され社会を構成していった。

 その土地だけの文化、歴史的背景、風習、風景、人々の生活ぶりを物語として伝えていくことが重要であると思う。

 産業遺産は、文明社会の形成においてかけがえの無い歴史的意義をもち、産業国家においては、国を豊かにしようとして来た試行錯誤の痕跡である。

記憶の財産である

 それは未来へ向かって語り継ぐ財産であるのかもしれない。

 長崎港を出発した「軍艦島クルーズ船」は40分ほど波に揺られながら香焼、伊王島、高島をながめながら中ノ島を過ぎると徐々に軍艦島(端島)の姿がその異様な形と共に見え始める。

 観光客がざわめき始める瞬間である。

 カメラを各自が握り締めここぞとばかりにシャッターを切り始める。

 「まさに軍艦だ!」感嘆の声が聞こえる。

 今まで居眠りに浸っていた乗客も大きな目を見開く。

 徐々に船はスピードを落としながら島に近づいていく。遠めで見ていた軍艦島の聳え立つコンクリートの要塞がまじかに迫ってくる。乗客がその風景に釘付けになり始めるとしだいに船は島の正面を横切るように島の後方へ向かいだす。接岸時間は各船会社に午前午後割り当てられている。少し早めに到着した観光船は接岸時間までの間、軍艦島の裏の風景を見せているのである。表側の鉱業所があった場所は多くの施設は殆ど姿を消し、そこに何があったのかさえも想像できない。

 しかし、この島の裏側の住宅施設は49年目の威容をそのまま残しているのである。表側を最初に目にした乗客はしだいに見えてくる高層アパート群に度肝を抜かれていく。海の真ん中に団地が現れたのである。端島小中学校の色あせた白い建物から始まる49年前の生活の息吹がまだ残される建物がみえてくる。

 現在はこのアパート群に上陸して立ち入るには特別な許可が必要である。通常の観光船では海上からの風景しか見ることしかできない。

 カメラのシャッター音が前後左右から聞こえ始める。乗客にとってはまさに非日常の風景画そこに見えているのである。思わずその姿にカメラを向けたくなるのも頷ける。

 見えてくる建物のかつての役割をガイドが説明していく。それに頷きながら乗船客は一時もカメラの手を放すことは無い。

 そして多くの観光客は「廃墟、廃墟」と叫び始める。

 しかし、かつて49年前にはこのアパートの窓にはすべて灯りがついていた。とガイドが話し始めるとカメラの手が一瞬止まる。

 軍艦島は時間が止まった場所であるのかもしれない。

 海抜47.7mの岩肌に青空に映える白い灯台が見える。この灯台は、この島から人が消えた後に設置された肥前端島灯台である。この島は炭坑の島、24時間操業、常に人の灯りがあった時には灯台は必要なかった。この島自体が灯台の役目をしていたのである。

 しかしながら、昭和49年4月20日をもって島の灯りはすべて消えたのである。だから灯台が必要になった。

 その明かりが消えるまでは、どんな生活がそこにあったのか。

 元島民として知られざる軍艦島(端島)のかつての生活、世界遺産への道のり、20年間のガイド経験からエピソードや今後の観光の問題点などを記してしていきたい。

(つづく)

寄稿者 坂本道徳(さかもと・どうとく)NPO法人軍艦島を世界遺産にする会 理事長

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