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平成芭蕉の「令和の旅指南」⑧ 令和ゆかりの「西の都」と太宰府天満宮

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「令和」の典拠となった「梅花の宴」と大宰府

 新元号が「令和」と決まった際、福岡県太宰府市は「令和」の典拠となった万葉集の序文に続く歌が、当時の大宰府長官である大伴旅人の邸宅で開かれた「梅花の宴」で詠まれたものだと発表しました。「梅花の宴」が開かれた邸宅の場所については諸説ありますが、そのうちの1つが大宰府政庁跡の左奥にある「坂本八幡宮」付近と言われています。

 この令和ゆかりの地となった太宰府市は、地名の由来となった地方最大の役所跡の「大宰府」や防衛施設の水城跡、観世音寺や戒壇院、菅原道真公を祀る太宰府天満宮など、多くの文化財を有する「歴史とみどり豊かな文化のまち」ですが、約1350年の歴史を誇ることから、「古代日本の『西の都』~東アジアとの交流拠点~」というストーリーが日本遺産に認定されています。

 「梅花の宴」は、当時、一般には珍しかった梅の花(白梅)をめでて開かれたとされ、筑前守だった山上憶良をはじめ大宰府や九州の高官たちが参加し、梅の花を題材に和歌が披露されました。その後、梅は菅原道真の伝承とともに、時代を越えて太宰府と関連深い花として親しまれ、多くの受験生は道真公を祀る天満宮へ詣でては、

「こちふかば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」  菅原道真

と詠んだ「学問の神様」道真公に合格祈願をしますが、これは有名な「飛梅」を鑑賞する「花」の旅でもあり、素顔の道真公を訪ねる旅でもあります。

菅原阿道真公の歌碑(大宰府天満宮)
菅原阿道真公の歌碑(大宰府天満宮)

菅原道真公を祀る大宰府天満宮

 道真公は天皇の忠臣として右大臣まで登りつめましたが、901 年、突如、その活躍をねたむ藤原氏に無実の罪を着せられ、大宰府の長官として流されます。しかし、長官とは名ばかりで、大宰府の役所へ入ることもできず、朱雀大路沿いにあった官舎の「南館」は、道真公自ら「空しき官舎」と詠むほどに荒れ、不便な生活を強いられていました。

 失意のうちに亡くなった道真の亡骸を牛車にのせて運んでいたところ、突然、牛が動かなくなり、その地を墓所とし、安楽寺を創建したのが、後の太宰府天満宮のはじまりです。道真の死後、再び名誉が回復されると天神として祀られ、多くの人々の崇敬を集めるようになり、今日まで続く、天神様・菅原道真を大切にするまち「太宰府」を形成していきました。

特別史跡大宰府跡
特別史跡大宰府跡

人の交流拠点となった「西の都」大宰府

 大宰府は、日本で最初に築造された防衛施設の水城や大野城などの要塞を利用し、その中に約2km四方にわたって碁盤目の街区(大宰府条坊)を設けた本格的な都城で、街には人びとの住まいとともに、官人子弟の教育機関(学校院)、天皇にゆかりのある寺院(観世音寺・般若寺)、迎賓館(客館)など、都と同様の施設も備わっていました。

 それは、この地を訪れた人に日本の国際性を目に見える形で示すべく、国の威信をかけて築いた「西の都」であり、東アジアの先進文化と日本の文化とが行き交う場所でもありました。すなわち、大宰府は人の交流拠点であり、外国の賓客をもてなす場所でもありました。そのため、鑑真、空海、最澄などの文化的素養を持った知識人も滞在し、新しい文化が流入、その結果、「梅花の宴」など唐から持ち込まれたばかりの梅の花をめでつつ、和歌を披露しあうという歌会文化も生まれたのです。

観世音寺の戒壇院と鑑真

 「西の都」で繰り広げられた交流により多くの文化・文物が集まった姿は、大宰府政庁東に位置する観世音寺に伝わっています。観世音寺は、天智天皇発願の官寺で、観世音菩薩像を始め、都や大陸文化の影響を受けた彫像が次々と造立され、外国使節の饗宴では舞楽で使者をもてなしていました。

 また、鑑真は日本に漂着後、観世音寺に滞在し、753年、正式な僧になるための授戒を日本で初めて行いました。鑑真は失明しつつも、6度目の渡航でようやく日本に着き、京に向かう途中、観世音寺を訪れて最初の授戒を行ったのです。そのため、観世音寺の戒壇院は奈良の東大寺、下野の薬師寺と共に天下三戒壇のひとつとされ、多くの僧を輩出しており、授戒を行う戒壇そのものも現在に伝わっています。

鑑真ゆかりの観世音寺戒壇院
鑑真ゆかりの観世音寺戒壇院

西の都を訪ねる「いにしえの物語」に触れる旅

 私は坂本八幡宮から大宰府政庁跡を散策し、大宰府展示館を見学、さらに大宰府学校院跡から戒壇院、観世音寺まで散策しましたが、この周辺に広がる景観は、多くの人々の遺跡保護への強い想いと努力によって守り伝えられていると実感しました。

 交通機関の発達した現在では、お金と時間に糸目をつけなければ、私たちは世界中のどんな辺鄙(へんぴ)な場所にも行けます。そこで今日では、残された最後の秘境は「過去」であり、古典を通じて古代の人々と心を通じさせる旅が「令和を感じる旅」だと思います。すなわち、令和の時代におけるおすすめの旅は、『万葉集』に詠まれた西の都のような古代日本の「いにしえの物語」に触れる旅です。

 しかし、令和の時代になって観光客が増えるのは喜ばしいことですが、同時に「古都大宰府を守る」という意識が日本遺産の物語と共に受け継がれていくことを祈念します。

寄稿者 平成芭蕉こと黒田尚嗣(くろだ・なおつぐ)クラブツーリズム㈱テーマ旅行部顧問/(一社)日本遺産普及協会代表監事

「令和」の典拠となった万葉歌(坂本八幡宮)
「令和」の典拠となった万葉歌(坂本八幡宮)
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