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ボーダーフル・ジャパン 第9回 「球磨・人吉」

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列車が走らない肥薩線の球磨川鉄橋
列車が走らない山線・球磨川第三橋梁
(今なお健在)

 急行えびの号で一気に山下りをすると、美しい川をわたる鉄橋に差しかかる。河原も見える静かな流れ、球磨川沿いに広がる盆地が人吉である。

 熊本県の一部とはいえ、鎌倉時代から700年にわたり相良藩に支配された独自の歴史と文化をもつこの地は、中世城跡(日本百名城のひとつ)、青井阿蘇神社(国宝:冒頭の写真は、こちらの山門)、武家屋敷、そして球磨焼酎など独特の風景を放つ。

昭和から続く、人吉の風景

名物立ち売り
名物、人吉駅の駅弁「立ち売り」

 えびの号がホームに滑り込む。

べんとう、べんとう」という声が聞こえる。

 名物の立ち売りだ。短い停車時間に急いで、鮎ずし栗めしを買い込み列車に戻る。八代へと向かう車窓から球磨川を見ながらいただく弁当は至福このうえない。

鮎ずし
鮎ずし

 急流下りを楽しむ観光客が見えてきた。私も一度、両親と試した覚えがある。

 人吉のホームでの風景は昭和だけのものではかった。えびの号が廃止され、いさぶろう・しんぺいの時代になっても、ホームの駅弁売りは令和でもまだ健在だった。2020(令和2)年7月の豪雨災害までは。最後まで人吉の伝統を守っていた駅弁売りのおじさんは肥薩線の復活を願いつつ、かなわぬまま逝ってしまった。

https://hitoyoshi-sharepla.com/entrance_news.php?news=6048

 人吉はしばしば映画やドラマの舞台にもなる。蒲田行進曲。主人公のスタントマン、ヤスが結婚の報告に故郷に帰るシーンがある。

栗めし 私はこっちが好きだった
栗めし
私はこっちが好きだった

 私には一目で撮影場所が人吉ではないことがわかった。だが、風情はとてもよく出ていた。NHKのLIFEを主宰する内村光良さんの故郷もここ。

 “朝ドラ風”オムニバスドラマ「うっちゃん」をわくわくしながら見ていたが、内村さんは人吉を舞台にして映画も制作している。

家族の思い出

 実は私の祖父は昭和の国鉄マンであった。定年後、人吉駅の鉄道弘済会(キヨスク)の仕事で赴任していた(ただし、気難しい祖父が売り子をやっていたとは思えない)。若き私の母は人吉から熊本まで毎朝、国鉄に乗って熊本市内の化粧品会社に通っていたと叔母(母の妹)が教えてくれた。

 まったく覚えていないのだが、結婚して都城に居を構えた後、身体が弱く、63歳で急逝した祖母の見舞いに私を連れて通っていたそうだ。私は記憶をはるかに超えるほどこの区間の旅をしていたのだろう。かすかだが、蒸気機関車の客車に乗ったモノクロの風景も頭の中に残っている。

 私が吉都線から肥薩線の山線に特別な感情を抱くのはそのために違いない。都城から吉松まで普通列車で行き、そこで西鹿児島から来た急行やたけ号に乗ったこともふと思い出した。

思い出の九州の地へ

 人吉災害の直前、九州大学とのクロスアポイントメントにより、福岡に滞在する機会が増えた。せっかくだから、私は宮崎や鹿児島を旅しようと考えた。その際、何よりも肥薩線を体感したかった。(「最期」という言葉は使いたくないが)山線、川線を楽しめ、写真も存分に撮れたことは喜びである。ところで、都城では明道小学校の同級生たちが45年ぶりに私のために同窓会を開いてくれた(同級生の一人が老舗の旅館を経営しており、会場はそこ)。私は小学校6年生で清武小に転校しているから、卒業生ではない。

 同級生の一人が、私の著書を目にとめ、メールで連絡をくれたことが再会へとつながる。その彼は宮崎県で仕事をしていた。北海道総合博物館のツーリズム展示で、宮崎交通や宮崎県の支援が得られたのは、彼の存在があったからである。

https://hokudaislav-ees.net/news-event/20220928343/

方言の矯正指導

 都城の同窓会では小学生、とくに低学年の頃の話で盛り上がった。私は朝一時間目の前にあった「日本語の時間」についてみんなに確認した。「あいうえおあお、かきくけこかこ」。方言の強い都城弁の矯正指導がこの学校の方針だった。そのときの教科書を持っていないかと訊いたが残念ながら誰も持っていなかった。

温泉も有名(新温泉は震災後、休業中)
温泉も有名(新温泉は震災後、休業中)

 私も忘れていたエピソードを旧友の一人が語ってくれた。方言を使うと誰かが「汚い言葉」を使ったと先生にいいつける。先生はバツとして、何か持たせて(札かどうかは自信がない)廊下に立たせて反省させていたそうだ。

 そのおかげで私は標準語しかしゃべれない。アクセントがないから私がどこの出身か誰もわからない。私の故郷のひとつは、こうして消されていた。

 いま「ボーダーフル」に私がこだわる理由のひとつもここにある。

(つづく)

(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=20

寄稿者 岩下明裕(いわした・あきひろ) 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授

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