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東京再発見 第12章 江戸風情モノクローム~台東区柳橋・花街の匂い~ 

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亀清楼と緑のアーチの柳橋
亀清楼と緑のアーチの柳橋

 夕暮れ前になると屋形船が今宵の宴を待つように明かりが灯り始める。

 神田川が隅田川に合流する最後の橋が柳橋だ。緑のアーチを描いた橋は、最近数多くのドラマや映画のロケ地となっている。また、袂には佃煮の名店もある。かつての花街は今と昔が混在し、モノクロームが似合う街だ。

隅田川がこの地に米蔵を・・・

夕暮れが似合う佃煮の小松屋
夕暮れが似合う佃煮の小松屋

 この辺りは、1630年に徳川幕府が設置した米蔵「浅草御蔵」の一部。現在の柳橋2丁目に岡崎藩や上田藩の武家屋敷があった。浅草御蔵とは幕府の米蔵。地租が金納となったのちは米廩(べいりん)または米蔵と呼ばれていた。1878年以降は大蔵省内において大阪など全国の米蔵を掌握。そして、米価の調節など貯蓄米にかかわる事務を行った「常平局」が管理し浅草御蔵の地に本局をおいた。

 江戸時代には、関東平野北部からの舟運が大きく寄与したと言われる。利根川を千葉県の銚子に水路を変えると同時に、江戸湾には隅田川の流れが影響力を増した。そして、隅田川に注ぐ神田川は、江戸城につなぐ水路として発展をした。

 また、明治時代以降、この水路を活用した秋葉原周辺に船着場が作られ、鉄道との結節点ともなったのである。

江戸前料亭には、芸妓が増えて・・・

夕暮れが似合う柳橋
夕暮れが似合う柳橋

 一方、柳橋1丁目は浅草旅籠町などが中心に江戸前の料亭が軒を連ね特に柳橋芸妓で知られた。隅田川の船遊び客の船宿が多く集まった。そして、花街として新橋と共に江戸・東京を代表する場所になった。柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つことを誇りとし、プライドが高かったと言われている。

 柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804-1817年)である。大田南畝の記録によると14名が居住していた。1842年に水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認花街や遊廓)から逃れてきた芸妓が移住し花街が形成される。そして、交通至便のため風光明媚の街として栄えた。

 1859年には芸妓が150名ほどいたという。

 明治時代になると新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と呼ばれる。この頃は、柳橋芸者のほうが新橋より格上と言われていた。また、1928年には、料理屋・待合が62軒、芸妓366名の大所帯となった。芸妓の技芸も優れ、新橋演舞場や明治座に出演し披露していた。代表的な料理屋は伊藤博文が利用した「亀清楼」である。

料亭の終焉

 第2次世界大戦によって大打撃を受けたが敗戦を経て復興。1952年は料亭57軒となった。しかし、1964年の東京オリンピック以後衰退。また、隅田川の護岸改修(カミソリ堤防)が景観を遮断した。それが花街にとって大きな致命傷となった。それでも、花街は世間に迎合せずその伝統を守り通した。

 そして、1999年1月に最後の料亭「いな垣」が廃業し200年近くの歴史に終止符を打った。現在はマンションやビルが立ち並び、一部であるが花街の痕跡が残っている。

名残を感じるモノクロな町

総武線の高架の南北に柳橋の地名が・・・
総武線の高架の南北に柳橋の地名が・・・

 浅草から続く江戸通り周辺は、さまざまな問屋街が集約された場所である。蔵前辺りには装飾品の小物問屋街。浅草橋には雛人形。と、柳橋の古くからの建造物とあわせるとゆっくりと町歩きができる場所である。

 特に、柳橋の花街の腑に気を残す地帯は、年季の入った食堂がある反面、今風のワインバー隣り合わせにあったりする。そして、神田川に架かる浅草橋から柳橋にかけては船宿がたくさんあるため、夕暮れ時が似合う場所だ。モノづくりや江戸風情の食が同居し、とても不思議な雰囲気を醸し出している。

 細い路地を曲がって、夜な夜な飲み歩くのも、とても素敵である。

(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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