米国出身のウイリアム・メレル・ヴォーリズという人物をご存知の方はいらっしゃるだろうか? 大丸心斎橋店本館、故伊集院静氏をはじめ多くの作家・文化人が逗留したお茶の水・山の上ホテル(先日、竣工86年が経過し老朽化対応のため休館)や校舎の12棟が重要文化財に指定されている神戸女学院のことを見聞きされた方は割といらっしゃるのではなかろうか。
わが国においてはお役目ご免となった建築物の多くは解体・撤去、建て直しとなることが多い。大丸心斎橋店本館の老朽化による建て替えに際しては、市民からの要望に加え、日本建築学会からも歴史的価値による保存・活用の要望書が心斎橋店を保有する(株)大丸松坂屋と親会社のJ・フロントリテイリング(株)に提出され、結果的に竹中工務店の開発した最新の技術を初適用し、往時の景観・デザインが保存されることとなった。
https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/20140520.pdf
https://www.takenaka.co.jp/news/2020/04/01/index.html
https://www.daimaru.co.jp/shinsaibashi/webmagazine/magazine/069.html
また、家庭の常備薬と言ってもよい軟膏のメンソレータムを知らない方は少ないのではないだろうか。これらは、まさに冒頭に紹介したヴォーリズ氏が手掛けたものである。
同氏は建築家にしてキリスト教の伝道師であった。1880年に米国カンザス州で生まれ、1905年(明治38年)にYMCAの英語教師として滋賀県近江八幡にあった県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高校)に赴任する。教師の傍らキリスト教の伝道に励むが、YMCA英語教師は伝道が許可されていたにもかかわらず、そのことから教師を解職される。それでも熱心な教え子たちの支援もあり同地に留まり、伝道資金捻出のため建築事務所を興し、学校や教会、ホテル、商業施設、個人宅など昭和18年(1943年)時点で日本、中国、朝鮮で約1,600件の建築物の設計・施工に携わった。メンソレータムも伝道活動の資金捻出のために、米国より権利を得て同氏が興した近江兄弟社が製造・販売(現在はロート製薬に権利が移り、近江兄弟社はメンタームの商標で展開)したものである。
ヴォーリズ氏は播州小野の最後の藩主であった子爵一柳末徳の三女・満喜子(ひとつやなぎ・まきこ)と結婚。太平洋戦争開戦の1941年(昭和16年)には日本に帰化し、一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる:米国より来て留まる)と改名して以後亡くなるまで日本に留まった。満喜子夫人と共に伝道と社会奉仕活動に専念し学校や病院なども設立し、今は夫人とともに近江八幡の地に埋葬されている。戦時中の苦難の時代には三笠宮家や秩父宮家の支援があったそうである。こうしたことから近江八幡には同氏が手掛けた建築物が数多く残されている。
写真出典 https://www.gfc.co.jp/blog/vories/
近江八幡は、中世の頃より栄え、織田信長が安土(現近江八幡市)に居城を構え、城下の楽市楽座は、安土城焼失後、豊臣秀次の八幡城下に移され大いに発展し、以後、売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よしの理念に代表される近江商人発祥の地としても有名となった。市内には古い街並みが重要伝統的建造物群保存地区に登録されている。琵琶湖に面した同地は、湖魚を通じて漁業と農業がつながる資源循環型システムが国連世界食糧農業機関(FAO)から琵琶湖システムとして登録されている。また、「琵琶湖とその水辺の景観~祈りと暮らしの水遺産」として、また西国33か所のうち観音2霊場を有することから2府5県にまたがる「1300年続く日本終活の旅~西国三十三か所観音巡礼」の6つの構成遺産のうちに2カ所が日本遺産として認定されている。
こうした文化・自然遺産に恵まれた近江八幡であるが、同地のヴォーリズが遺した建築物はヴォーリズの事業を継いだ近江兄弟社グループ、有志そして所有している個人による保存・維持の努力で成り立っているといっても過言ではなく、大変な労苦があるそうだ。これらの文化的遺産は文化財としての保存・活用が進む一方でコスト面の負担が大きく、このままであると、まさに「負債化」しかねない危機感から、さる3月に大津にキャンパスを置く立命館大学社会システム研究所(所長、立命館大学経済学部教授・金丸裕一氏)の主催で文化的遺産の「負債化」を防ぐために~近江八幡の事例にどう向き合うか~本稿タイトルのシンポジウムが近江八幡の地で開催され筆者もパネリストの一人として登壇した。
同じく登壇されたヴォーリズ建築文化全国ネットワークの事務局長をされている関西学院大学名誉教授の田淵結氏(同学院の元院長・現神戸女学院監事、牧師)は、神戸のヴォーリズ建築の保存・利活用事例をあげられた。空襲で被害を被った神戸ユニオン教会の旧礼拝堂は改修費用捻出の難しさから売却・変遷ののち、フロインドリーフ社が購入し、積極的な改修が行われている。現在は、ショップ併設の人気のカフェとして商業施設としても観光文化財としても高い評価を受けている。
一方、ヴォーリズ六甲山荘(旧小寺家山荘)は所有していた甲南女子大からアメニティ2000協会が買い取り、会員ボランティアによる維持・管理・運営がされているそうだが、往時の状態を保存した形でボランティアによる運営維持は経済的、人的負担が大変だと聞く。どちらが最適解であるか判断はつかないが、文化財活用の対照的な事例であると思われる。また、同氏が監事を務める神戸女学院もまた、キャンパス内の12棟の重要文化財の補修・維持の難しさをあげ、学生数が創建当初から増えている中、キャンパス自体の改修の難しさや、校門(重文指定)の改修だけで3000万円という多額の費用負担が発生した事例も指摘された。
こうした負担は、個人宅としてヴォーリズ物件を所有している方にとっても大変な問題である。ヴォーリズ氏の愛弟子かつ良きパートナーとして事業を支えた吉田悦蔵氏のお孫さんにあたる吉田与志也氏もまた、維持と管理はまさに「私費と熱意」によるもので、公費補助や税優遇の課題に触れられ、文化財を核とする観光と歴史文化の町づくりの重要性を指摘された。同じく登壇者の歴史ブランディングを専門とされる久保健治氏は「歴史」をいかにして文化的遺産の継承と発展に結びつけるのか、他には模倣できないというその土地固有の「歴史」の利点と手段としての観光を視野にいれながら街づくりのブランディングに活かすべきと訴えられた。
筆者は、このシンポジウムでこうした文化的遺産の活用の問題は所有者の問題として捉えるのではなく、地域として、行政としていかに街づくりに落とし込んでいくかが重要であり、行政や観光事業者のみならず、近江八幡市のさまざまな関係者による合意形成をベースにした文化財の利活用にかかる理念やアクションプランへの組み込みの重要性を説いた。観光地域経営で100年超の歴史をもつ米国DMOにおいても地域の合意形成はDMO運営における喫緊の重要事項である点や、地域の実態をあぶりだす手法を紹介し、わが国においても合意形成と意思決定のできるプラットフォームや、市民が他人事ではなくわが事として観光に関わり合う仕組みを作り上げている宮城県・気仙沼市や、全国で運営されているONSEN・ガストロノミーウォーキングの事例もあげた。
実はこのシンポジウムのひと月前、近江八幡の地に降り立った。ふらりと観光案内所をのぞいたり、主催者の金丸裕一氏(立命館大学経済学部教授・同社会システム研究所所長)とヴォーリズの遺志と事業を継承する(公財)近江兄弟社常務理事の藪秀実氏を紹介いただき、いろいろなお話を聞きながら、近江八幡の街並みやヴォーリズ建築を見て歩いた。また、2023年3月に改訂された近江八幡市観光振興計画(~2032年度まで)をくまなく読み込んでみた。
同計画は課題として、①市民が地元を学び知る機会の提供②市内外に点在する資源の連携③事業者間の連携④観光が市民生活に資するための仕組みの構築⑤本市の価値・魅力を伝える場の設置、情報発信の強化—を挙げている。理念として「近江八幡ライフスタイルツーリズム~近江八幡らしい生活文化の継承と共創~」を掲げ、市民と観光客の交流を通じて市民には学び体験する機会を拡充し、(近江八幡への)愛着と誇りを醸成して近江八幡らしさを伝えてもらう力を高めてもらう。来訪する観光客には、繰り返し訪れてもらいながら魅力を発見し、より深く理解してもらい魅力を発信してもらうことを掲げている。
そのアクションプラン(観光施策)として、①テーマ・ストーリー性の高い体験価値②プラットフォームの形成 ③サステナブルな仕組み④コミュニュケーションデザインの強化-を柱としている。
出典 近江八幡市観光振興計画(2023年3月)
https://www.city.omihachiman.lg.jp/soshiki/kanko_seisaku/5/25114.html
しかしながら、この61ページにおよぶ観光振興計画において、ヴォーリズの建築に触れた箇所はわずかに数カ所・数行である。ウイリアム・メレル・ヴォーリズの活動にみられる社会貢献の精神性、ヴォーリズ建築のこと、そしてヴォーリズ建築を巡るガイドツアーの記載のみであった点、並びに同計画の策定を担った観光振興計画策定委員会(委員長以下19名)と同ワーキンググループ(座長以下11名)にはヴォーリズ建築や社会事業を現在も継承・維持している近江兄弟社グループからの代表者が一人もおらず、文化的価値をもつこれらの建築群のこれからが気になるところではある。加えて、シンポジウムには文化財保護を担務とする同市総合政策部文化振興課からの出席はあったが、同観光政策課からの出席者が見られなかった点においても行政にありがちな縦割りの弊害がないことも期待したい。
観光まちづくりは観光事業者と観光政策担当者のみならず、そこで暮らし働くすべての事業者、学校関係者、議会、市民が横断的に取り組む事業であり、これからの近江八幡市の観光まちづくりにおいて、わが国有数の文化的遺産であるヴォーリズ建築がどのように位置付けられ、利活用が進んでいくか注目していきたい。
寄稿者 中村慎一(なかむら・しんいち)㈱ANA総合研究所主席研究員