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ボーダーツーリズム(国境観光) 第11章 沖縄本島

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ハワイを超えた観光客数

 2017年、沖縄の島々への観光客数が939万人となり、世界有数のリゾートであるハワイの938万人を超えました。そのニュースを知った時、私のみならず、沖縄観光に長く関わってきた方方は驚き、感慨深かったのではないでしょうか。

 2018年には年間1,000万人を超え、その3割が外国人観光客。DMOの活動も活発で、沖縄はオフシーズンのない「通年観光」を実現している数少ない地域となりました。コロナ禍を経て、昨年は沖縄とハワイの観光客数は再び逆転しました。しかし、<人数>はハワイ路線に就航する航空機の大型化の要因もあり、リゾート・観光地として人気の差ではないことは言うまでもありません。

沖縄との出会い

 私が初めて沖縄を訪れたのは1977年。社会人1年目の夏休みのことでした。今ではプライベートビーチを持つ豪華なリゾートホテルが本島西海岸中心に立ち並んでいます。しかし、当時はムーンビーチとみゆきビーチの2つほど。増え始めた夏の観光客の多くは那覇市内のホテルに宿泊し、片道約1~2時間かけて航空会社や大手旅行会社がラッピングしたバスでムーンビーチまで往復していた時代でした。

 翌年の夏は那覇港からフェリーに乗って、鹿児島県の与論島へ。当時与論島の人気は絶大で百合が浜には多くの若者たちが集まっていました。全日空と日本航空が沖縄キャンペーンでしのぎを削り始めた頃かと思います。

沖縄旅行の主流は団体旅行

 1972年、沖縄県が本土に復帰し、1975年には「海-その望ましい未来」をテーマとした万博「沖縄海洋博」が開催されました。半年の開催期間中の来場者数は349万人。目標には届かなかったようですが、沖縄経済の復興に大きく貢献しました。そして、何よりも多くの日本人が国内旅行として沖縄を<体験>しました。

 青い空・海、白い砂浜を目指して若者たちも訪れてはいましたが、海洋博後の沖縄ツアーの主流は添乗員が付いた団体バス旅行。海洋博記念公園と南部の太平洋戦争の戦跡や慰霊の地を巡るコースでした。

 かく言う私も関西からの大型団体の現地受けの添乗員として1978年春から初夏にかけて那覇市内に駐在していました。参加者の多くは摩文仁の丘やひめゆりの塔で手を合わせて涙するお年寄りでした。

730沖縄

 当時添乗員の私たちがもっとも気を遣ったのが車の対面交通が右側通行だったことでした。バスの乗降口も右側。立ち寄り場所等で参加者が事故に巻き込まれないよう神経を尖らせたことを思い出します。戦前の沖縄は左側通行。終戦後の占領下で右側となり、それを1978年7月30日に一気に左側通行に戻したのです。730沖縄として今も語り継がれている出来事です。

 太平洋戦争終戦後、沖縄本島以南の島島は本土復帰して、さらに6年を経て730を迎えたわけです。

石垣島にある730記念碑
石垣島にある730記念碑

 画像は、石垣港離島ターミナル近くの交差点にある「730記念碑」です。

 準備の段階から大変な作業だったことは、NHKのドキュメンタリー番組でも紹介されています。

 その日、私の添乗業務は終盤でした。観光バスの運行はなく、その混乱を見ることはありませんでした。そして、当時の私はことの重大さに気付きもしませんでした。

逆さ日本地図

 トカラ列島、奄美大島から沖縄、台湾までの弓状に連なる数多くの島々を琉球弧と呼ぶそうです。<>のように見えることをハッキリと確認したのは「逆さ日本地図」を見た時です。

 <逆さ>なので、日本海が下にあり、太平洋は日本列島の上にあります。日本海は大きい湖のようでもあり、日本列島はユーラシア大陸にとって太平洋の防波堤のようにも見えます。

普段とは「逆さ」の日本地図
普段とは「逆さ」の日本地図、3つの<弧>が見える

 <>は3つに分かれていて、サハリン・北海道の弧、本州・九州の弧、そして奄美諸島から沖縄本島・八重山諸島さらには台湾までの琉球弧は東シナ海を包みこんでいます。

 大昔に日本人の祖先が来た道が想像できます。さらに太平洋の大海原の向こうにある北米大陸との交流が始まる前の時代のユーラシア大陸との交流、北前船を使った国内交流もより鮮明に想像することができます。

 何よりも視点を変えてみることの大切さに気付きます。『琉球弧の視点から』という島尾敏雄さんの名著を読めば、沖縄の島島の歴史・風土への理解はさらに深まると思います。

内なるボーダー

 沖縄本島那覇空港と西海岸のリゾートを結ぶ国道58号線は嘉手納基地の鉄条網が続き、名護市にあるカヌチャベイリゾートからはキャンプシュワブが遠望できます。まさに「内なるボーダー」です。

 また、石垣島では八重山の産業資源となっているパインや水牛を持ち込んだ台湾人の足跡、今も残る台湾系住民の信仰や暮らしぶりに触れることができます。八重山毎日新聞の元記者で現在も沖縄や台湾で活躍するフリージャーナリストの松田良孝さんの言葉をお借りすれば「島はひとつの<色>で塗りつぶすことはできない」のです。沖縄には多様な<色>があるのです。

チャンプル沖縄

 ひとつの<色>ではない、とは色々な物が混ざり合っていること。沖縄方言の「チャンプル」です。混ぜこぜを意味するチャンプル料理ですが、溶け合ったスープではありません。豆腐だけでなく、ひとつひとつの食材が主張しながら独特の味を出しているのがチャンプル料理です。それは沖縄そのものではないでしょうか。

 私の体験を書けば、沖縄は日本有数のリゾートであり、キャンプハンセンに近く英語の看板が並ぶ金武町のお店でハンバーガーを食べ、ロックと融合したオキナワミュージックを聞き、アメリカ文化を楽しむことができます。

 そして、首里城やグスクや四つ竹などの舞踊など琉球文化に触れることもできます。さらに、久高島や斎場御嶽にまつわる伝記は天孫降臨神話のようでもあります。

 ひとつひとつが沖縄を形成しています。真にチャンプル沖縄です。

 根底に脈々と流れているのが<争わず交流を主旨とする「万国の津梁」の精神>であり、それこそが沖縄を唯一無二の存在にしているのではないでしょうか。

(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=17

寄稿者 伊豆芳人(いず・よしひと) ボーダーツーリズム推進協議会会長

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