コロナ禍以前を超える勢いで需要が伸びている観光業界。しかし、人手不足は深刻化しており、せっかくのビジネスチャンスを活かしきれない事業者も少なくありません。また、近年の資源・エネルギー価格の高騰や歴史的な円安による物価高が利益を圧迫。コストアップ分の価格転嫁も悩ましいところです。
こうした宿泊・観光事業者の課題に対して、解決の糸口を探るべく実証実験に取り組んでいるのが、リクルート じゃらんリサーチセンターの客員研究員である北嶋緒里恵。今回は北嶋が実際の宿泊施設と行ったマーケティング調査の実証実験例を交えながら、「高付加価値化」と「組織・人材力強化」の双方を実現する手法を紹介します。
一番ロイヤリティが高いコアファンは、「宿泊施設への愛着が深い従業員」ではないか
ここ数年、観光マーケットは激しい変化の波にさらされ続けてきました。国を挙げてインバウンド対応を進めていた2010年代。その後、世界を襲ったコロナ禍では、多くの事業者が休業や人員整理を余儀なくされ、そして現在は歴史的円安がインバウンド急回復の追い風になっています。
もちろん、トレンドを踏まえた対応は大切です。しかし、目まぐるしい変化に振り回されてしまうと、いたずらに企業体力を削ってしまう結果にもなりかねません。また、コロナ禍の苦境の中で、多くの事業者のみなさんが実感されたからなのでしょうか、近年は「自分たちの宿ならではの強みを活かした、魅力的なプラン・サービスを開発し、コモディティ化(一般化)による競争から脱却したい」というニーズの高まりを感じます。市況に左右されない状態を確立することは、変化の激しい宿泊・観光産業にあって重要な中長期戦略と言えるでしょう。
しかしながら、目の前では旅行需要がV字回復しており、中長期の計画にはなかなか手が回らないのも実情です。需要が高まっているのに対し、人手不足は以前よりもさらに深刻に。マンパワー不足による従業員の疲弊は離職を誘発する要因の一つにもなります。人手不足による負のスパイラルから抜けだすためにも、組織・人材力強化も喫緊の課題としてよく聞こえてきます。
こうした「自社の強みを活かした差別化」「組織・人材力強化」の2つの課題を解決していくソリューションとして、リクルートのじゃらんリサーチセンターで現在開発を進めているのが、「ファン従業員から引き出す 新たな宿泊需要ポテンシャル・マーケティング調査」(略称:「宿ポテンシャル調査」)です。
ポイントは、各社の従業員の声をマーケティングの出発点にしていること。宿泊事業者は、一般的にじゃらんnetなどのOTA(Online Travel Agent)や自社で収集した宿泊者アンケート、口コミの評価などを参考にしています。しかしそれらは、既存サービスの改善活動(マイナスをゼロにする)には大変有効ですが、新しいサービスのアイデア(ゼロからイチをつくる)にはやや不向きな側面もあります。
そこで私たちが当初注目したのは、宿へのロイヤリティが高い“ファン”の意見。施設やサービスに魅力を感じてくれている彼らの声をもとにした高付加価値化を検討しました。しかし、宿泊施設はサービスの性質上、コアなリピーターと言っても施設を利用するのは多くても年に数回程度で、集められる意見の数にも限界があります。もっと日常的に接点を持つファンはいないだろうか。宿を取り巻くステークホルダーを見渡してみると、大変な市況でも、また働く場所の選択肢は豊富にある中で、各施設に愛着を持って働き続けてくれている従業員こそ、宿の魅力やポテンシャルを知る一番のコアファンなのではないかという仮説が導かれました。
マーケティング調査のプロセスを通して、従業員エンゲージメントを高める
ここからは、実際の調査手法をご紹介していきましょう。宿ポテンシャル調査のファーストステップは、従業員を対象としたアンケート調査からはじまります。大きく分類すると「場所」「人」「サービス」の3つのテーマで、従業員が日常の業務を通じて感じていること・気付いていることを自由に記述してもらう形式を取っています。こだわっているのは、「課題」ではなくその人がポジティブに感じている宿の「魅力」について書いてもらうこと。前述した通り、調査の目的は改善活動ではなく、“魅力の抽出”だからです。
手触り感のあるリアルな意見を収集するべく「個人の感想レベルでOK」とフォローしておくことも意識。率直に回答してもらうために、場合によって匿名形式でも実施しています。また、対象を特定の雇用形態や職種に絞らず、なるべくすべての従業員から意見を集めることもポイント。料飲、人事・総務、メンテナンス、清掃といった宿泊客向けサービスの前面には出ない人たちからも幅広く意見を集めることで、宿泊部門担当者では気付きづらい魅力の元となる要素を抽出していきます。アンケートの最後には、宿業務への関与意向度と宿への愛着度合いを確認する設問を用意。ここで“ファン度”を測り、ファン度の高低によって意見を分類、ファン度の高い意見を軸に分析する観点でレポーティングします。
次のステップは、回収・集計したアンケート結果をもとに行う、従業員参加の社内ワークショップです。この場では、組織や世代の垣根を取り払ってメンバーを多様化したグループをつくるのがポイント。1チームあたり4~5名のグループになって、アンケート結果を踏まえながらそれぞれが感じていることをディスカッションします。話題はサービスに直結する内容に限っていません。宿とは全く関係のない自分や他従業員が好きなこと・興味のあることも含めて対話を行い、従業員同士の相互理解を深めるのも目的の一つ。そうすることで、例えばアニメに詳しい従業員が「アニメファンをターゲット顧客に想定した聖地巡礼プランをつくる」といった、既存の宿サービスの延長線にはない斬新なアイデアを表出しやすくしています。
最後のステップは、従業員の意見から見えてきた「新たなサービスの種」となる新アイデア企画を、各宿泊施設の宿泊客のみなさんにアンケートで評価してもらうこと。カスタマーからの評価と意見を取り入れながら、新サービスや顧客満足向上の施策等の実現に向けて絞り込みとブラッシュアップの材料とします。
こうしたマーケティング調査~サービス開発のプロセスは、従業員が職場で自身の意見が傾聴されることで、働くモチベーションのUPや、仕事への主体性を育む機会の提供にもなっているのが、最大のポイント。自分やメンバー感じている職場への愛着をオープンに共有し、自分の意見がサービス開発や経営に活かされるというプロセスを通じて、より一層今の職場を好きになってもらい、従業員エンゲージメントを向上させるのも狙いです。
多様な従業員の視点を取り入れる共創型経営が、変化に強い宿へ進化する鍵に
2023年度は、3つの宿泊施設でこの取り組みを実証実験しました。例えば、シティホテルの東京ステーションホテルでは、「宿泊」「料飲」の部門長がキーになるスタッフを選抜してメンバーを構成。 多様な参加メンバーによるディスカッションを実現できたことが好評でした。ホテルに愛着度の高いファン従業員からのアイデアは、ホテルとしても新たな発見につながるものが多かったそうです。今回生まれたアイデアをもとに、2024年度に新たな顧客満足度向上施策を実現する動きも生まれています。
伊香保温泉の温泉旅館、松本楼では、部署、雇用形態、社歴を超えた81名の従業員がワークショップに参加。若手人材が中心となって主体的に全体をけん引する姿が見られたことが印象的でした。今回のアンケートやワークショップを通じて、主体的に宿の運営に参加する意識がより一層高まり、例えばあるメンバーはInstagramや自社ブログで自主的に宿の魅力を発信する動きが活発化する等の変化も。その風土が離職者の抑制にもつながっているそうです。
最後にご紹介したいのは、草津温泉 ホテルヴィレッジ。従業員が宿ならではの魅力に挙げたのは、草津温泉として多くの人が思いつく「温泉」「湯畑」の魅力だけでなく、ホテル敷地内の自然豊かな環境でした。特に愛着度が高いファン従業員ほどこの傾向が強く、「季節ごとの絶景スポット」や「森林浴散策」などを魅力に推していたことが特徴的。同エリアの温泉宿と差別化していくうえで、「ホテルヴィレッジらしさ」とは何かを再認識できる機会となったそうです。
このように、いずれの事例においても、従業員満足の向上によって顧客満足の向上や新規顧客獲得の兆しが生まれています。また、宿の経営層やリーダー層の皆さんが実感している効果は、“組織横断型の共創”が生まれていること。宿泊施設は、一定以上の規模になると、宿泊、料飲等の部門単位で日々のマネジメントや組織戦略を決める手法が多くなるかと思います。合議が取りやすくスピード感もある反面、それぞれの役割や各組織内に閉じていると“その中の当たり前や常識にとらわれすぎてしまうリスクもあるのでは”と考える経営層・リーダー層の方々も近年増えているように思います。多様な従業員のアイデアを積極的に取り入れて、共創型の経営を模索したいと考える宿のニーズにも、このマーケティング手法はフィットしていると言えそうです。
また、こうしたニーズを肌で感じるのは、変化が激しい時代だからこそ、なのかもしれません。市況の変化を素早く察知して、柔軟に対応しつつも、変化に一喜一憂せず時代を超えて愛してもらえるファンをいかに獲得するか。その起点になる存在こそが従業員であり、ファン従業員をいかに増やすかが、ファンカスタマーを増やすための鍵になるのではないでしょうか。
寄稿者 北嶋緒里恵(きたじま・おりえ)㈱リクルート じゃらんリサーチセンター 客員研究員。2003年リクルートに入社。旅行情報誌等の編集デスクを担当。09年より『じゃらんリサーチセンター』に配属、観光による地域活性プランニングを担当。14年研究員に着任し、17年より研究部門のグループマネジャーを兼務。22年3月末に退職し、客員研究員に就任。これまで「リゾート宿泊需要の高付加価値マーケティング」「持続可能な宿経営」など宿泊業をテーマとした研究や、直近は「帰る旅プロジェクト」を立ちあげ、観光庁「第2のふるさとづくり事業」と連携のうえ一般社団法人 雪国観光圏とともに推進中。