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東京再発見 第27章 水都江戸・繁栄の証~ミニパナマ運河・小名木川~

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小名木川・・・その歴史

 江東区周辺の地図を眺めていると東西にまっすぐ伸びる水路に目が向く。この川は小名木川、隅田川と旧中川を結ぶ運河だ。江戸時代初期に徳川家康の命令で建設されたもので、全長約5kmである。

 江戸入府の1590年頃、徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田に注目した。しかし、行徳から日比谷入江までの江戸湾は、砂州や浅瀬が広がっていた。そして、船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのだ。

 その後、塩以外の品物や成田山への参詣客なども運ぶようになった。行き交う物量の増大により、1629年、小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅される。小名木川と旧中川、江戸川につながる新川の合流地点には「中川船番所」も置かれた。そして、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米なども行き交う大航路となった。

新しい土地に流れ込むヒト・モノ

 また、江戸への人口流入に対応するために、この地域は埋立・開拓が進められた。やがて、小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、舟運による人や物資の運搬がなされるようになった。

 明治時代に入ると、小名木川沿岸一帯は船を活用して、原材料を運ぶことができることもあり、さまざまな工業が盛んになる。そして、1930年には荒川放水路が完成すると、旧中川と新川の合流地点に「小名木川」「小松川」「船堀」の3つの閘門が設置された。

 江戸時代以前の中川(現在の旧中川)は、古利根川を上流として、途中で元荒川と合流していた。そして、水元・新宿(にいじゅく)・奥戸・平井を通り、綾瀬川・堅川・小名木川と通じながら、江戸川につながっていた。徳川吉宗は、水害から近隣の村を守るために1725年から散在していた池や沼を利用して、ひとつの流れを造作した。そのため、「九十九曲り」をよばれる屈曲の激しい川となった。隅田川と江戸川の間を流れるからという理由で、この川は「中川」と呼ばれた。

 中川流域は、過去から洪水に悩まされてきた。そのため、1916年から中川改修工事が行われ、1930年に荒川放水路(現荒川)および翌年に中川放水路(現中川)が完成した。そして、中川は、二つに分断されて現在のような形になった。1966年に分断された中川の下流部分が「旧中川」と改称された。

小松川閘門・・・水路が変わり、お役御免に

 荒川、中川の両放水路の水位差(最大3.1m)調節を図るため、小松川閘門が設置される。閘門にはゲートを上下する一対の塔が上流と下流側にそれぞれ建てられていた。2つの門の間の閘室に舟が入って、水位を調節する仕組みであった。しかし、時代を経るに従い、陸上交通へと転換され、1976年にお役御免となった。以降、舟の通行は不可能となった。現在、旧中川側の1門が移設保存、しかも、地上に見えるのは全体の3分の1ほど。残りは、土の中に埋まっている。

小松川閘門の姿
上:風の丘公園に保存された小松川閘門 下:小名木川入り口の対岸に見える小松川閘門

荒川ロックゲート・・・見直される舟運

 一方、時代は舟運から陸上輸送に変化したが、道路の渋滞などから水上交通確保の目的のほか、大地震の際には、救援物資の輸送路としても閘門を新設して、小名木川を活用することが検討されるようになった。その結果、2005年、新たな閘門として、荒川ロックゲートが完成する。

荒川ロックゲート 上:荒川側を望む 下:旧中川側を望む

 前述のように、閘門とは、ゲートが開くと閘室内に入り水位調節。調整後は、反対側のゲートが開いて反対側の河川に出るという仕組みだ。荒川ロックゲートは、ゲート間(閘室)が全長65m、幅14m。全長55m以下、幅12m以下、高さ制4.5m以内の船が通航できる。通過には20分ほどを要し、開閉速度はゲートの毎分10mと国内最速級なのだ。まさしく、パナマ運河の東京版なのだ。

 さて、旧中川に入ると、右手に小高い丘を見ることができる。階段の上には、小松川閘門の跡も見ることができる。ここから左手に小名木川は始まる。人口の運河ゆえ、真っすぐに伸びていることが理解できた。

水に触れる優雅な時間

 両岸には、水辺に近いプロムナードが造られている。地元の方々が、散歩やランニングと人通りもそれなりにある。この辺りは、海抜ゼロメートル地帯と言われているが、プロムナードは水が近い。これは、小名木川の終始点に水門が設置され、水害を防止できるからである。江戸風情の行灯が等間隔に設置され、夕暮れになると明かりも灯る。観光船で優雅に進むのも一興だろう。

 2021年の東京オリンピックの開催時に陸上交通の慢性的な渋滞を避けるために舟運を活用することが計画された。船の運航ルールに則れば、河川で渋滞することはない。クルマ社会から次世代路面電車(LRT)や舟運が見直されてきているのだ。これは、輸送手段から観光目的につながる良い取り組みでもある。

小名木川の風景
プロムナード沿いに見える風景 上:あか錆びた鉄道橋梁が見える 下:複線の片方は、線路が剥がされている

 また、途中には古くなった鉄道橋を越える場所に出会う。これは、葛飾区金町から江戸川区小岩を経由し、江東区越中島の貨物駅までを結ぶ線路である。こちらも南北の公共交通機関が乏しい城東地区の新たな輸送手段として、期待されているところである。

小名木川クローバー橋・・・川の十字路の橋梁

 ほどなく、小名木川と横十間川が交わる川の十字路にたどり着く。運河が縦横に巡らされている墨田区や江東区は、観光目的においても舟運が効果的である。横十間川を北上すると東京スカイツリーの袂まで進むこともできる。しかし、場所によっては、既に暗きょとなっている場所や親水公園となって、船が運航できない場所があることは残念である。

川に十字路に架かるクローバー橋
川の交差点、クローバー橋 上:人と自転車のみが通行できる 下:小名木川と横十間川の交差点にクローバー橋

 そして、この十字路には、歩行者専用の橋梁が造られている。小名木川クローバー橋と名付けられた橋だ。小名木川南北を結ぶ橋は、旧深川区内は、約200mごとに架けられている。しかし、四ツ目通より東は1kmごととなり、南北の往来が不便であった。そのため、1994年に架橋されたものである。十字にクロスした橋は、北側にはスカイツリーを望むこともできる。観光目的と地元住民の生活が同居する素敵なコンテンツだ。

扇橋閘門・・・もう一つの重要な閘門

 さて、クローバー橋から西側に目を向けると、大きな水門のような建物が見える。小名木川がミニパナマ運河と言われる謂れは、荒川ロックゲートだけではなく、小松橋と新扇橋の間にある扇橋閘門もその理由だ。

 2つの水門に挟まれた水路(閘室)に船を入れ、水位を人工的に昇降させることにより船を通過させるというもの。こちらは、全長110m、幅員11m。通航できる船舶は全長90m以内、幅8m以内、高さ4.5m以下。カヌーやカヤックなども通航できる。

上:扇橋閘門の東側の入り口(この日は閉鎖中) 下:西側の入り口(開放中)

(扇橋閘門の仕組み)

https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jimusho/chisui/jigyou/suimon/sisetu/ougibashi_drive.html

 ここまで両岸にあったプロムナードは、扇橋閘門を境にして途切れてしまう。そのため、少しだけ遠回りしなければならない。荒川ロックゲートのように、上から見ることもできないため、歩いて観光するには、少しばかり物足りない。やはり、船で通過する方が、その迫力を感じることができる。

 また、閘門の先は、大横川の交差する場所になる。しかし、ここにはクローバー橋のようなクロスする橋がないため、こちらも少し寄り道を余儀なくされる。

 大横川を越えると、橋の間隔が短くなる。南側一帯は、昨今、倉庫などを改装したカフェで有名となった清澄白河エリアである。また、かつての木場貯木場も埋め立てられ、広大な木場公園の中に東京都現在美術館も開設されている。

(清澄白河の記事は、第17章をお読みいただきたい)

https://tms-media.jp/posts/27611

萬年橋・・・そして隅田川へ

 歩みを進めると、新小名木川水門が見えてくる。終点の萬年橋は水門の向こう側だ。

 萬年橋は、すぐ西側で隅田川と合流する場所。1680年の江戸地図には「元番所のはし」としてここに橋があったと記載される。江戸時代初期、この橋のすぐ北側に小名木川を航行する船荷を取り締まるために「川船番所」が置かれていた。この番所は明暦の大火後の江戸市街地の整備拡大に伴い、1661年に中川口へと移されたため、付近が「元番所」と呼ばれていたことに由来する。慶賀名と考えられる「萬年橋」という呼称となった時期などは不明だ。

隅田川と小名木川の合流点
隅田川との合流点 上:芭蕉の銅像とケルンを彷彿させる清洲橋 下:船上から見る萬年橋(後方には新小名木川水門)

 また、関東大震災直前は木造橋だった。しかし、老朽化とあわせて震災復興計画により現在の橋となった。そして、北岸は松尾芭蕉が居を構えた場所。隅田川と小名木川の合流地点付近の住居跡は芭蕉歴史庭園として整備されている。近隣には、江東区芭蕉記念館もある。

 隅田川のすぐ南側にある清洲橋は萬年橋たもとからの眺めがもっとも美しく見える角度とされ、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を彷彿させることから「ケルンの眺め」と呼ばれている。

たまには、時計を逆回ししても良いのでは…

 戦国時代の終わり、江戸は寒村と言われていた。そのため、徳川家康は都市改造を進め、人口増加に対応し土地を広げていった。そして、新たな土地に運河を張り巡らせ、舟運を一つの輸送手段として、発達させていった。また、芭蕉も深川の邸宅から大川を上り、奥の細道の旅に出立した。

 今では、クルマ社会は、空を飛ぶクルマの時代とも言われている。しかし、水上交通の活用も忘れてはならないモノ・コトになるのではないだろうか。良いモノ・コトは、過去も現在も未来も変わらない。

 観光の未来は、「たった一人のひらめきが、万人のトキメキに変わる」ものと、とみに感じる今日この頃である。

小名木川の地図
小名木川の地図(グーグルマップより転載)

(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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