羽田空港から西に向かう航空機は、そのほとんどが瀬戸内海の北側を航行します。晴れた日のフライトは、さまざまな姿を見せてくれるワクワクするルートです。
瀬戸内海・・・その自然環境
瀬戸内海には700以上の島があります。海岸線総延長は約7,230kmです。東西450km・南北15~55 km。平均水深は38m、最大水深(豊予海峡および鳴門海峡)は105mです。そして、領海法(国際法)による瀬戸内海の面積は 1万9,700km²です。
古来、畿内と九州を結ぶ西日本の主要航路として栄えました。そして、気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ないという特徴です。年間日照時間が2,000時間を超える地域もあります。そのため、岡山県は「晴れの国」とも言われています。
一方、備讃瀬戸から安芸灘、燧灘、伊予灘にかけての海域は、3月~6月ごろに移流霧が多くなります。そのため、高気圧に覆われ晴れた日などに霧が発生します。この霧が、海難事故を引き起こします。その代表例が、1955年の宇高連絡船・紫雲丸事故です。
また、瀬戸内海は潮の干満差が大きいことで知られています。これは奥に行くほど顕著になり、最奥部の燧灘周辺では干満差は2m以上にもなります。このため、潮流が極めて強く、川のように流れている所もあります。この強力な潮流により、各地で「渦潮」が発生します。
歴史とともに、海の役割
古くより瀬戸内海は海上交通の大動脈となっていました。『魏志倭人伝』や『日本書紀』には、「イザナミの産んだ島」が瀬戸内海沿いに記されています。また、摂津国住吉大社の住吉津から遣隋使、遣唐使は出発していきました。そのため、瀬戸内海には、海の神である住吉大神を祀る住吉神社が数多く建てられています。
奈良時代になると、陸上交通路(山陽道や南海道)と瀬戸内航路が並行利用されていました。平安時代中期は、嵯峨源氏の渡辺綱を祖とする摂津国の渡辺党が水軍の棟梁となります。また、藤原純友が瀬戸内海の海賊の棟梁として反乱を起こしたことも大きな出来事(承平天慶の乱)となりました。そして、平安時代末期には、平清盛が瀬戸内航路を整備します。音戸の瀬戸の開削事業や厳島神社の整備を進め、流域を支配下に置きました。
秩序ができあがると・・・
鎌倉時代から戦国時代にかけては、地場の武士が、水軍を組織して瀬戸内航路を制御下に置くことになります。しかし、豊臣秀吉は、海賊停止令を発布。そして、江戸時代には水軍勢力は排除されます。
安全な航路となったことで、西廻り航路の一部(関門海峡~大坂)として、瀬戸内海は流通の中心の役割を果たします。幕末には、外国船が長崎から瀬戸内海を経由して横浜へ航行していました。また、1864年、下関砲台の外国船砲撃事件により馬関戦争(長州藩と英仏蘭米艦隊との戦い)が起きています。
明治時代以降は、本州・四国内の鉄道交通網の整備、瀬戸大橋などの開通進められます。その結果、海上交通路としての重要性は薄れていきます。しかし、阪神・別府間の観光航路が開設され、観光旅行目的の航路に移行していきました。
瀬戸内海・・・そう呼ばれるのは
さて、瀬戸内海という概念が誕生したのは、江戸時代後期とされます。それまでは、備讃瀬戸や伊予灘といった狭い海域名の集合体であり、全域を一体してとらえていませんでした。明治期に欧米人がこの海域を「The Inland Sea」と呼び、日本人学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼び始めました。また、雲仙(雲仙天草国立公園)、霧島(霧島錦江湾国立公園)とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」となります。
1912年、大阪商船が別府温泉の観光開発を目的として阪神・別府航路に貨客船を就航させます。これは、純粋に観光を目的とした船旅の初めと言われます。戦後、これを引き継いだ関西汽船が、最大時6隻体制まで充実させます。そのため、別府航路(瀬戸内航路)は、阪神と九州を結ぶ観光路線として、多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運ぶこととなりました。
1996年に広島原爆ドームと厳島神社が世界遺産に登録されます。また、1999年に本四架橋が全て完成、尾道・今治ルートは「しまなみ海道」と名付けられました。これによって、瀬戸内海全体が観光ルートとして、再注目を浴びるようになります。そして、2016年には、瀬戸内海地域の観光地経営を行う「せとうち観光推進機構」が発足しています。
淡路島と明石海峡大橋
瀬戸内海最大の淡路島は、日本神話では「国産みの島」と言われています。飛行機からもなかなか全体像を俯瞰することが難しい島です。本州側を明石海峡大橋、四国側を大鳴門橋でつながっています。昨今、島内に数多くのリゾートホテルが建つようになりました。阪神圏から高速道路を利用すると、短時間で到着するため、関西圏の方々のリゾートアイランドになっています。
余談ですが、淡路島を日本地図上でひっくり返すと、琵琶湖に似ています。そう感じているのは、小生だけでしょうか?
小豆島と高松市街
淡路島に次ぐ二番目の大きさの島が小豆島です。ギネスブックにも登録される最も幅の狭い海峡(土淵海峡9.93m)が橋でつながっている二つの島です。そして、周辺には、桃太郎の鬼ヶ島のモデルと言われる女木島などの島々もあります。また、島中央の星ケ城は瀬戸内海の島で一番高い山(817m)です。そこからの景観は、3つの連絡橋や高松市内も見渡すことができます。
備讃瀬戸・瀬戸大橋
1987年に開業した瀬戸大橋の周辺を備讃瀬戸と呼びます。瀬戸内海で最も水深が浅いエリアです。古くからさまざまな漁業が盛んな場所。また、船舶数も多く、事故多発地帯でもあります。岡山県と香川県は、晴天率が高く、そのため、水枯れの心配から讃岐平野には溜池が数多くあります。
かつて、瀬戸大橋を初めて渡った時、鷲羽山トンネルを抜けた瞬間、歓声が沸いたことを思い出します。日本の土木技術の集大成、その強大な建造物はホント息を飲んだものです。
それまで、四国にはフェリーで踏み入れていました。しかし、連絡橋の完成によって、車と列車での移動に変化しました。その結果、橋は四国観光の復権の象徴と言われ、高速道路網も徐々に拡充されました。そして、四国札所八十八箇所巡りも一般の方々にもブームを迎えることとなります。
しまなみ海道・来島海峡大橋
大小数多くの島々を縫うようにして、尾道から今治まで、しまなみ海道は通ります。自転車も通行できる橋のため、サイクリストがたくさん訪れる橋です。その中でも今治寄りの来島海峡大橋は、眼下の海域通行ルールが特異なことでも有名です。
来島海峡は、昔より「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と唄われる鳴門・関門海峡と並ぶ日本三大急潮、10ノットに達する潮の流れです。馬島と小島の間を「西水道」、馬島と中渡島の間を「中水道」と呼び、大型船舶はどちらかを通航します。これを「順中逆西」と言います。潮流に乗って航行する場合(順潮)の場合は短く屈曲の少ない中水道を、潮流に逆らって航行する場合は西水道を進むという規則です。潮流が北向きの時は通常通り右側通行、南向きの時は左側通行です。一日にほぼ4回通行方向が入れ替わる世界唯一の海峡です。
ダッシュ島
テレビの影響力は、やはり大きなものです。写真右上の砂州でつながれた無人島、某芸能人が開拓する「ダッシュ島」です。東日本大震災で閉鎖された福島県浪江村「ダッシュ村」からバトンを受け、2012年9月からこの島をメンバーが開拓しています。
トロッコレールを敷いたり、水路や舟屋、反射炉を作り上げ、一つの文化を創造する。そのような夢を具現化しています。因みに、本当の島名は由利島と言います。松山空港の西の海上、伊予灘にある島は、夢と希望を与えてくれる島と言えます。
呉と音戸の瀬戸・江田島
呉は、天然の良港と言われ、古くは村上水軍が根城にしていました。そして、明治時代以降は、帝国海軍・海上自衛隊の拠点となりました。呉鎮守府が開庁され、戦前は呉海軍工廠において世界最大の戦艦「大和」などが建造されました。そのため、東洋一の軍港・日本一の工廠と言われました。
ここから倉橋島につながる橋が音戸大橋、歴史上名高い「音戸の瀬戸」があります。ほぼ南北に伸びる海峡で南北に約1,000m、幅は北口で約200m、南口の狭いところで約80mです。平清盛が開削したという伝説のある風光明媚な観光地です。
そして、倉橋島の先にはY字型の島があります。北西部が能美島、北東部が江田島という二つの島。元々別の島であり、飛渡瀬と呼ばれる狭い海峡で隔てられていました。後にこの海峡は埋め立てられました。
1888年に海軍兵学校が東京築地から移転。海軍ゆかりの島となります。そして、「江田島」は海軍兵学校の代名詞となりました。戦後も海上自衛隊第1術科学校および海上自衛隊幹部候補生学校が置かれています。ここの教育資料館には、特攻隊の資料が展示されています。
広島市内・厳島と岩国空港
広島市内は太田川の三角州に広がった町。南東は呉につながる「軍都」。そして、南西は世界遺産「厳島神社」が位置します。
厳島は、通称「安芸の宮島」と呼ばれています。古代より、島そのものが自然崇拝の対象。平安時代末期は、厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点として、歴史の表舞台に登場します。また、江戸時代中期には、丹後国の天橋立、陸奥国の松島と並ぶ、日本三景の一つに挙げられる景勝地となりました。
その厳島の中心は、厳島神社です。海上に浮かぶ朱塗の大鳥居と社殿の厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護し大きく発展しました。厳島神社および弥山原始林は、1996年に世界遺産に登録されています。
また、島の弥山(535m)山頂から望む瀬戸内海の多島美も人気があります。伊藤博文は「日本三景の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛しました。1900年に定期航路が開設されると、海上交通が改善され、島への参拝客・観光客が急増することになりました。
そして、厳島の向こう側には、アメリカ軍と共存する岩国空港の姿も見えます。なんとなく、権力構造の縮図を見ているような気にもなります。
佐田岬半島
佐田岬半島は、四国最西端の半島です。八幡浜港から西南西へ中央構造線に沿っています。長さ約40kmにわたって針のように突き出しています。日本列島で最も細長い半島です。
付近はリアス式海岸、急峻な山地で平地はほとんどありません。そのため、道路整備は遅れました。突端部の旧・三崎町までバスが通じたのは1960年代、それまでは船舶に頼らざるを得ない「陸の孤島」でした。
佐田岬から九州の佐賀関半島へは16km。三崎港から佐賀関港を国道九四フェリーが就航しています。また、豊予海峡大橋や四国新幹線の建設構想がありました。しかし、いずれも具体化に至っていません。そして、佐田岬先端の佐田岬灯台には、かつての帝国陸軍施設の芸予要塞・佐田岬砲台が遺構として残っています。
佐田岬半島は北西に風を遮る陸地がないため、季節風の影響を受けやすい場所です。そのため、風力発電のためには風況が良く、発電のための風車が、稜線上に林立し、独特の景観を見せてくれます。
俯瞰するたびに思う・・・巨大な海洋リゾート
ある時は鏡のような穏やかな顔。また、ある時は怒り狂った激流の姿をみせる瀬戸内海。日本を代表する海洋リゾートは、広大でまだまだ知られていない宝物も少なくありません。優雅に船旅と洒落こみながら、新たな磨き上げをすることによって、日本一の観光地になり得るでしょう。瀬戸内海の魅力・力量を俯瞰するたびに、感じ入り、いつも空の上でワクワクする時間を過ごしているのです。
寄稿者 観光情報総合研究所 夢雨/代表
(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=181