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東京再発見 第30章 河川舟運~見直してみよう、その利便性~(前編)

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江戸の町に華が咲く

 江戸時代も5代将軍・綱吉の御代となると「元禄文化」、町人文化の華が咲く。戦乱がない時代は、経済的な余裕が出てくる。そして、さまざまな娯楽や旅が行われるようになった。伊勢講や富士講などの宗教色の強い旅であった。しかし、一般民衆も参加できるようになったと言える。ただ、遠方まで出向くことは、そう簡単なことではなかったと感じる。

江戸風情の水辺~小名木川~
江戸風情の水辺~小名木川~

 家康入府から元禄時代までの約百年間、江戸の町は、数度の大火に見舞われた。この災禍によって、江戸の町自体が大きく変わった。かつて、江戸城は、日比谷入江の端であった。しかし、埋め立てられ、大川の東側にも町ができあがった。そして、その場所には、縦横に運河がめぐらされる。そのため、「舟」による移動手段をうまく活用していたのである。

 また、新たに作られた「遊郭・新吉原」は、蔵前あたりから舟に乗り、浅草山谷堀に上がり、日本堤を歩いて訪れていたとも言われている。江戸菖蒲の中心である堀切周辺も舟遊びをしながら、訪れていたという記録もある。

本格的な「旅」の時代

 このような今はやりの「町歩き」は、昨今始まったわけではない。江戸中期以降に本格的な娯楽が行われるようになった時から始まっているのである。

水辺に咲く桜花
水辺に咲く桜花

 「町歩き」は着地型観光の鉄板コンテンツであると何度となく述べてきた。「自分の足」で「自分ペース」で「自分だけ」の観光コンテンツを創り出すことができる。それが、「町歩き」の醍醐味である。

 古くから神社仏閣詣でに始まり、門前の茶屋で名物を食す。これこそ、現代の「町歩き」の原点と言えるであろう。

 陸上輸送は「徒歩」か「籠」に乗って移動する。一方、水上移動に使われるものは「舟」である。

 特に遠距離の海上輸送は、西日本(瀬戸内海)を中心に発達していた。そして、大坂と江戸を結ぶ海路の整備も進められてきた。島国である日本列島は、海岸線を周遊する形で海上輸送が発達してきた。

 しかし、河川舟運は、輸送手段だけではなく、観光目的(物見遊山)でも利用されるようになった。

新しいものが見つかる「目線」

 大人の目線は、地上から1.5mほどである。一方、水辺からの目線は、それより低い位置だ。それ故、ある意味、子供の目線に近いものと言える。それは、純粋な気持ちで周囲を見渡し、新たな発見が生まれるものである。

 まさしく、「川散歩・水辺めぐり」は、着地型観光コンテンツとして、脚光を浴びる可能性がある。過去より大坂や江戸は水都であった。河川舟運が輸送手段として、町を作ってきた歴史を誇っている。それ故、その歴史をしっかりと学ぶことによって、新たな観光コンテンツの創造につながると考える。

築地大橋とスカイツリーの雄姿
築地大橋とスカイツリーの雄姿

 今回は、舟運の歴史などを深堀して、最終的に東京における河川舟運の観光コンテンツ化を検討してみたい。

舟運の黎明

 江戸時代以前、各地でさまざまな舟運を目的とする河川開発が進められた。16世紀末には、上杉景勝家臣が信濃川筋の改修を行なった。越後平野開発の基礎である中の口川と信濃川の分離だ。農業用水の確保や舟運による運搬のために河川を動かしたのだ。

 また、豊臣秀吉は、巨椋池と宇治川の分離工事を行った。山城盆地を咽喉部である淀の地は重要拠点。伏見を川湊とし、京都と大坂を結ぶ淀川の舟運を確立させた。

 そして、江戸時代に入ると、幕府の利根川や淀川、東北・伊達藩の北上川での大規模な河川工事が始まる。

海上水運の動き

 一方、海運においても、江戸時代初頭までは全国規模の航路整備は進んでいなかった。例えば、東北諸藩は江戸向けの廻米を、東北の海を北から南へ東廻りのルートで運んでいた。しかし、直接江戸湾まで通じていない。常陸国の那珂湊までは海路。その先は陸路も交えて、霞ケ浦などの湖沼や利根川・江戸川などを経て舟で江戸に運んでいた。そのため、膨大な時間と労力を費やさざるを得なかった。

 この不便を解消するために、1644〜48(正保年間)年に那珂湊―銚子間の海路が改善される。その後、幕府は1660年に河村瑞賢を起用して西廻りと東廻りの両航路を改善させた。翌年には東廻り航路、その翌年には西廻り航路が整備される。ここに、本州沿岸を一周する航路がほぼ完成する。

 また、東廻りは、東北方面から来る船を一旦伊豆に向かわせる。そして、西風に乗せて浦賀水道を通って江戸湾に引き入れるのだ。比較的安全なルートの発見によって、江戸と東北との結び付きがより強固になった。

より身近な河川舟運

 さて、日本の河川舟運は、古代より行われてきた。年貢米輸送や商品流通に大きく貢献したのだ。その一方で、河川舟運は物資輸送だけではなかった。地域文化・慣習を伝播するという面や都市や河岸・津などの船着場集落の形成にも役割を果たしてきた。

東京湾のかつての貯木場
東京湾のかつての貯木場

 近代に入ると、殖産興業政策によって、運搬する物資が増加し、河川舟運は最盛期を迎える。昭和中期ごろまで、米や木材は、険しい山道を歩く陸上交通よりも水運の方がはるかに速く容易であった。そのため、ほとんどの河川で、現在の道路機能の代わりに人や貨物を運ぶ重要な物流の中心であった。

 例えば、琵琶湖を水源とし大阪湾に注ぐ淀川を上流域で瀬田川、中流域で宇治川と名を変えて呼ぶ。京都と大坂を結ぶ交通の大動脈となっていた。また、淀川に合流する支流の木津川は、奈良の平城京や東大寺など寺院建設に利用された。瀬田川流域の森林から伐採された木材が木津川を遡って奈良に運ばれていた。

河川舟運の衰退

 明治中期以降、鉄道網拡充や河川改修、陸上交通の発達、橋の役割の変化などの影響を受ける。そのため、河川舟運は徐々に衰退していった。ただ、木材だけは昭和中期ごろまで「いかだ流し」と呼ばれる運搬方法によって川で運ばれていた。しかし、この輸送方法も電源開発や利水確保のために川にダムが建設されるようになると廃れていった。

かつての運河の名残、汐入運河と水門跡
かつての運河の名残、汐入運河と水門跡

 今日、交通手段は、陸上交通に代わった。そのため、河川舟運はほぼ見られなくなる。しかし、かつてのような本来の運搬機能から川下りや遊覧観光の船便が増えてきた。水の都と言われる大阪や東京では、観光目的の水上バスが運行されるようになるのだ。

水都~大阪・東京~

<大阪の場合・・・>

 織田信長が、石山本願寺と長い期間の抗争に苦慮したと伝えられる。この本願寺は、豊臣秀吉の時代に大坂城となる場所である。上町台地の端にあり、眼下に淀川が流れる堅牢な城郭となったのだ。かつて、海であった土地を埋め立て、浪速の町は形成されていく。そして、この低地には縦横に運河が巡らされ、河口付近には、今でも渡船が元気に運航している。

 大商業都市となった大阪は、この運河を活用し、貨物輸送が行われていたのだ。そして、現在では、その運河を活用し20分程度のショートクルーズが行われている。特に道頓堀を運行する「とんぼりリバークルーズ」は、大阪ミナミの街全体をテーマパークとして位置づけている。地域や提携企業と連携し7団体(地権者や商店街、大阪市、まち歩き会社)で立ち上げた「なにわコミュニティツーリズムコンソーシアム」が企画している。この定期運航のショートクルーズこそ、河川舟運の将来を左右する観光コンテンツと言えるのだ。

とんぼりリバークルーズ
https://www.ipponmatsu.co.jp/cruise/tombori.html

<東京の場合・・・>

 一方、東京も水の都でありながら、定期船によるショートクルーズは存在しない。東京都観光汽船や水辺ラインといった定期船は運航している。しかし、団体旅行の観光要素もあるが、A地点からB地点への移動手段としての利用が多いのが現状だ。

東京都観光汽船
https://www.suijobus.co.jp/

東京水辺ライン(東京都公園協会)
https://www.tokyo-park.or.jp/water/waterbus/

 ここでいうショートクルーズとは、同一地点で乗降し、観光目的での乗船を指すものである。しかし、不定期路線でのロングクルーズは、多くの事業者が営業運航をしている。ロングクルーズとは1時間から2時間程度の運航を指す。具体的には、昨今人気の目黒川さくらクルーズや羽田空港下で航空機を見るツアーなどである。食事を伴う屋形船もその一つに数えられる。

 拡大するインバウンド需要に支持されるには、予約なしで乗船できるショートクルーズこそ、必須のコンテンツと言えるのだ。

運河ルネサンス~新たなチャレンジを~

 さて、東京の湾岸エリアでは、昨今、「運河ルネサンス」というワードが脚光を浴びている。これは、東京都港湾局港湾整備部が推進する東京臨海部の運河の活用及び整備する取り組みだ。東京水辺の魅力向上や観光振興に資するため、運河などの水域利用とその周辺におけるまちづくりが一体となり、地域の賑わいや魅力を創出することを目的としている。

 現在、地域町会や商店会、企業などの民間事業者、NPOなどの団体が集合し協議会を設立。そして、運河の活用方法やイベント、観光桟橋や水上レストランなどの設置を進めている。

運河ルネサンス
https://www.kouwan.metro.tokyo.lg.jp/kanko/runesansu/

運河ルネサンスの目標は、

 ・観光振興に資する賑わいの創出

 ・新たな運河利用の発掘など、水辺の魅力向上

 ・運河周辺地域の活性化

としている。

運河ルネサンスの未来

 江戸時代、人々の生活に欠かせない活気にあふれていた運河。舟で物を運び移動し、舟の上で遊んだ。そして、戦後の経済成長期には、東京港の貨物量は急増。そのため、運河は港から内陸への物資輸送に欠かすことのできない水路となった。まさしく、東京発展に欠くことのできない存在であった。しかし、近年、東京港に着いた貨物は、トラックなどの陸上輸送が主流になった。それに伴い、運河の利用は激減している。

 一方、世界的な水辺都市としてベニスやアムステルダムなどは、観光の目玉として運河が世界中から多くの観光客を引き寄せている。このことは、都市内運河には、観光資源としての大きな魅力があることを物語っているのだ。このような背景により、利用低下した運河や利用形態が変化する水辺空間を「観光」「景観」「回遊性」などを重視した魅力ある都市空間として再生させる取組みを開始する必要が生じている。

 現在、①芝浦地区、②品川浦・天王洲地区、③朝潮地区、④勝島・浜川・鮫洲地区、⑤豊洲地区、⑥東陽・新砂地区の6地区が推進拠点となっている。

運河ルネサンスを推進する地域
運河ルネサンス(推進地区)MAP 東京都港湾局HPより転載

 さて、ここまで、舟運全体の歴史などを綴ってきた。次回は、東京湾岸地区における動き(運河ルネサンス)や河川舟運の新たな観光コンテンツ作り、そして、将来への課題を抽出し、河川舟運の未来を検討することとしたい。

(つづく)

江戸風情の水辺の景観を・・・

神田川と柳橋(隅田川から)
神田川と柳橋(隅田川から)
日本橋川と豊海橋(隅田川から)
日本橋川と豊海橋(隅田川から)
亀島川と南高橋(隅田川を望む)
亀島川と南高橋(隅田川を望む)
北十間川・小梅桟橋
北十間川・小梅橋桟橋
貨物船の旅客化が待たれる
旅客化も待たれる、越中島貨物線
小名木川、クルーズの途中に隙間スカイツリー
小名木川、クルーズの途中に隙間スカイツリー
船宿の灯り~出船を待つ~
船宿の灯り~出船を待つ~
舟下りを待つ船の中
舟下りを待つ船の中
目黒川クルーズ
目黒川クルーズ
目黒川クルーズ、日差しがキラキラと
目黒川クルーズ、日差しがキラキラと
汐入地区の高層マンションとスカイツリー
南千住・汐入地区の高層マンションとスカイツリー
旧中川と小名木川の分岐点
旧中川と小名木川の分岐点

(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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