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東京再発見 第36章 下町の天神さんは、藤の花が似合います~江東区亀戸・亀戸天神社~

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 亀戸と書いて「かめいど」と読む難読地名、かつて、亀井戸と書いたと言われる。元々の地名は「亀島」、その名の通り亀の形に似た島であった。

争いが、なくなった時代には・・・

亀戸天神の石碑
亀戸天神の石碑

 正保年間(1644~1647)、菅原道真の末裔、太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志を持って諸国を巡った。

 そして、1661年に江戸の本所亀戸村にたどり着いた。そこで、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが、亀戸天神社の始まりとされる。

 当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町を定めた。そのため、四代将軍徳川家綱が現在の社地を寄進した。また、1662年には、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などを太宰府天満宮に倣い造営した。

 太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」などと称した。1873年には亀戸神社、1936年に亀戸天神社となった。

 一年を通じて、さまざまな花が咲き誇る。そして、道真が好んだ梅や菊も時期になると境内を彩る。しかし、ゴールデンウィークの最中に咲く藤の花が、昨今は一番の人気となっている。

 境内の太鼓橋に登ると一面の藤棚を見下ろすことができる。まさしく、この季節は橋の上でシャッターを切る人を待つ渋滞が発生するのだ。近隣の住民をはじめ、遠くからの国内外の参拝客が、高貴な色の藤の花に酔いしれる。

 また、スカイツリーの完成によって、藤の花とスカイツリーの競演も愛でることができるようになった。

町は、住民の力で作られる

船橋屋本店~ここにも藤棚が~
船橋屋本店~ここにも藤棚が~

 さて、亀戸天神社は、江戸の町の東の隅である。隆盛を誇るようになった頃は、江戸の町人も娯楽に興ずることができる時代となっていた。学問の神様に参拝し、藤の花を愛でる。そして、周辺にある数多くのお茶屋や飲食店で名物を食すことは、江戸時代のピクニックだ。特に「亀戸名物葛餅」は、万人に好まれるものとなっっていった。

 今も門前に店を構える船橋屋は、1805年に創業した。初代の出身地である下総国船橋は、良質な小麦の産地。それを、お湯で練りせいろ蒸しした餅を参拝客に供したのである。黒蜜と黄な粉をかけて食す「久壽餅」の始まりである。

 また、隅田川の東側は、江戸開府以降に新たな埋め立てによって作られた町である。武士も町人も一日かけて、物見遊山に出向く場所として発展していった。そして、今や亀戸は、B級グルメの宝庫として、駅前周辺の繁華街を形成している。

藤棚の後ろには、料亭が・・・
藤棚の後ろには、料亭が・・・

 町を発展させるのは、地域住民の力と言っても過言ではない。城東地区の数多くの町が、江戸時代中期に創り上げられた。そして、現代まで続いているのは、まさしく、町人の力である。

 昨今のオーバーツーリズムの課題の一つ、地域住民の不在を解決する先進事例とも言える江戸時代の町づくりだ。

 これから先もしっかりと守り続けて欲しい、いにしえの景観の一つである。

高貴な色合い、藤の花の姿を

女橋の先に本殿が・・・
女橋の先に本殿が・・・
藤棚が水面に映り込む
藤棚が水面に映り込む境内
女橋の先に本殿が・・・
女橋の先に本殿が・・・
満開の藤の花
満開の藤の花
境内の露店と外の喫茶店、そして、藤棚
境内の露店と外の喫茶店、そして、藤棚

(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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