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東京再発見 第40章 東風吹かば、春来たる~文京区湯島・湯島天満宮~

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東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな

と、菅原道真が大宰府に流される際に詠んだ句。そのため、天神さまと梅の花は、関係性が深いと言われる。

 ここ湯島天神は、東京における代表的な天満宮だ。社伝によると雄略天皇の御代、458年と言われる。そして、南北朝時代1355年に地域住民の請願によって、菅原道真を勧請合祀した。(この年を創建とする説もある。)

光を通す梅花、清々しく・・・
光を通す梅花、清々しく・・・

菅公、神となる

 「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいう。本来は、天神とは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではない。しかし、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついた。そして、「天満大自在天神」の神号を賜わった。それ故、菅公の神霊への信仰を「天神信仰」と呼ぶようになった。

怨霊への恐怖が・・・

菅公は、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった。その後、京都では時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去。さらに、日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害が多発する。そのため、農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きた。こうした状況によって、世の人々は不安になっていったという。

 また、930年に宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷が発生する。そのことよって、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するということが起る。その当時、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであった。そのため、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まったのだ。

 菅公の怒りが雷の形で現れる。このように信じた人々の信仰は、藤原氏や都の貴族たちに、恐怖と畏怖の念を植え付けていく。一方、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)と崇められる。そして、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていった。

まだまだ蕾ながら、キラキラと
まだまだ蕾ながら、キラキラと

祟りの神から学問の神へ

 やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄が称えられるようになる。その結果、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神となっていく。

 そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及する。全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立されていく。その結果、今の世に学問の神・誠心の神として崇拝されるようになったのだ。

 また、江戸時代になると徳川家代々からも崇敬を受ける。吉宗の時代に江戸の三大富くじ(富籤)の興行を行う神社となり、庶民からも親しまれるようになった。

今では、受験の神頼み

梅花の袂に合格祈願の絵馬が
梅花の袂に合格祈願の絵馬が

 2月上旬になると受験生が絶えることなく訪れる。そして、たくさんの合格祈願の絵馬が奉納される。また、境内に咲き誇る梅の花も、お昼間には冬の日差しがキラキラと差し込み、優雅な姿を見せてくれる。

 吉日の週末ともなると隣接する会館では、何組もの結婚式も行なわれる。式の合間に、艶やかな婚礼姿の新郎新婦が記念撮影をする姿は、とても素敵で、幸せの御裾分けとなる。

 正月が明けると、初天神(1月25日)には鶯(うそ)替え神事も行なわれる。この神事は、凶事を「うそ」にして、幸運に変える行事だ。そのため、鶯は天神さまゆかりの鳥である。

春の光に結婚式の記念撮影
春の光に結婚式の記念撮影

神様は、世俗と隣り合わせ

 2000年3月晦日、「湯島神社」から「湯島天満宮」に改称された。

 聖橋の袂の「湯島聖堂」から東京大学のある本郷、そして、この湯島天神までは、本郷台地の尾根沿いを抜ける道筋である。希望校に合格した暁に、お礼参りを済まして、天神さまの坂を下りていく。そこは、歓楽街である湯島・上野につながっている。静寂な町と喧騒の街は、いずこも隣り合わせ。

 このことは、偶然ではない。

手水の水面も縁日のよう
手水の水面も縁日のよう

(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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