話は、子供の頃に日暮里駅前の消防署の看板を見た時までさかのぼる。「荒川消防署・音無川出張所」と書かれていた。かつて、我が町・日暮里には、音無川という川が流れていた。また、一時期、基点である王子には親戚が住んでいた。そのため、物心ついた時に、この辺りに音無渓谷という場所があることも懐かしく思う。
さて、日暮里駅前には、既に川はない。「音無川って、何者?」その思いは、成人するにつれて、大きなものになっていった。
今回、機会を作り、その音無川を巡ってみることにした。皆様にも、この暗きょ巡りにお付き合いいただき、音無川という暗きょを深堀りしてみることにしよう。(なお、文中の見出しの丸数字は、周辺地図にマーキングされた場所に合致させてある)
音無川とは
北区王子付近に、石神井川は流れている。そして、現在の王子駅付近より上流2kmは、音無川と呼ばれていた。この名称は、王子権現(現在の王子神社)が1322年に領主である豊島氏によって、熊野新宮の浜王子を勧請したことに由来する。その本宮の近くに同名の川が流れていたのだ。音無川は、徳川吉宗が命名したと言われている。
また、この付近には、「王子七滝」と呼ばれる滝が連なっていた。そのため、音無渓谷とも呼ばれる渓谷ができあがっていた。石神井川は、滝野川とも呼ばれ、現在の町名にも残っている。
そして、この石神井川は、王子神社と飛鳥山の間でせき止められている。王子石堰と呼ばれる堰で、東に方向を変え用水路としたのだ。その石神井用水を音無川と言う。
音無川は、ここ王子から田端、西日暮里、日暮里の現在のJR線に沿って流れていく。また、日暮里駅前からは、現在の荒川区と台東区の区界を形成している。その先、三ノ輪の浄閑寺あたりで、3つの流れに分かれ、最終的に隅田川に注いでいる。
既に1934年には、暗きょとなり、現在は下水道として活用されているようだ。
音無川親水公園 ①
音無川のはじまりとなる親水公園は、1988年に開園する。石神井川の旧流路を整備された親水公園だ。江戸期に景勝の地として栄えた音無渓谷を再現した公園である。春は桜、夏は水遊び、秋は紅葉で賑わう。ここ数年、北区観光協会がライトアップイベントを行ない、時期になると、数多くのお客さまがやって来るようになった。
そして、園内の流れは石神井川の旧流路を整備したものである。自然の川を表現するために上流・中流・下流を設けている。上流は荒々しい岩や流木で渓谷を表す。中流は玉石を配置したせせらぎ。下流は舟や橋、水車、水門など、人との関わりを表している。また、河床は水遊びができるよう改修された。
一方、石神井川の本流は、JR京浜東北線の下を抜けると北東に進み、堀船付近で隅田川に注いでいる。
王子駅前 ②
王子駅付近で、本流と分かれた音無川は、上野台地の崖下を線路沿いに進んでいく。都電王子駅前の停留所とJRの線路の間の道が、暗きょである。
今も健在の都電荒川線は、かつて、この王子駅で赤羽方面と早稲田方面に分岐していた。しかし、赤羽方面は、北本通りに線路が敷かれていた。そのため、交通渋滞を引き起こしていたのだ。一方、早稲田方面は、専用軌道を比較的通っていたため、三ノ輪橋からの路線を統合して、現在に至っているのだ。
田端駅あたり ③
王子駅からは、東北本線の踏切や貨物線を左右に見ながら進む。また、新幹線の車両基地もあり、新幹線が洗車される姿に遭遇することもある。崖上に駅舎のある田端駅の高架の横をすり抜けていくと、数多くの貨物線を越える立体交差の道路が見えてくる。
ここから先は、東北本線を下からくぐる。JRの関連施設の中、線路沿いを流れていたと考えられる。そして、西日暮里駅方面に向かう前に、常磐線の三河島方面への貨物線の踏切を渡る。常磐線は、1896年に田端から水戸までが開業する。しかし、1905年に経路が変更となり、日暮里駅に乗り入れる。その名残が、この貨物線である。
西日暮里駅あたり ④
貨物線沿いを抜けて行くと道灌山通りが見えてくる。江戸城を作った太田道灌ゆかりの土地だ。かつて、すぐ横には日暮里方面に延びる一本の貨物線があった。また、現在の西日暮里駅の道灌山通りには、踏切もあったと記憶している。
そして、その手前のT字路で、音無川は町屋方面への藍染川と分かれる。その名残と思われる跡が今でも残っている。
金杉踏切 ⑤
緩やかなカーブを描く西日暮里から日暮里への道の先に、常磐線の金杉踏切がある。現在は快速電車や特急がひっきりなしに通り、開かずの踏切と言われている。また、京成電車が高架でクロスし、鉄道ファンにとっても、都内の珍しい風景である。
この踏切ができた時には、既に音無川は暗きょになっていたはずである。目の前を電車が通り抜けていく姿は、少しばかり、怖さも感じる場所である。
盛土された踏切から一気に坂を下ると、時がかなり経たビルに居酒屋が建ち並んでいる。眼前の日暮里駅前の再開発ビルと比べると時代の流れを感じる。ほどなく、荒川区内最大のJR駅、日暮里に到着する。
日暮里駅前 ⑥
我が町・日暮里、駅前には噴水のロータリーがあった。そして、その隣に日本最大級の駄菓子屋問屋街が存在していた。最盛期は160軒ものお店があったという。数区画の土地に細い路地が縦横に敷かれていた。その路地には、朝になると店に入りきれない品物が陳列る。そして、各地から駄菓子の仕入れに小売店主がやってきていた。
また、駅前には、2軒のお煎餅屋さんがあった。その内、1軒は作家の西村京太郎さんの実家であると小説のあとがきで読んだことがある。
なお、駄菓子屋問屋が、再開発で取り壊されたのは、2004年9月のことだ。そして、今では、たった1軒だけ、再開発ビルの2階に店舗を構えている。ご主人たちも高齢になってきた。古き良き時代の生業は、どうなることだろうか。
川に蓋をされたのは、今から90年前のことだ。その頃の写真は見たことがない。しかし、駅前を音無川が流れていた証拠は、「荒川消防署・音無川出張所」という消防署の看板が残されている。
ここから、文士村と言われる根岸方面に向かっていく。この暗きょが荒川区と台東区の区界として制定されている。地図を見ると、くねくねと曲がった道である。とても不思議な感覚である。
羽二重団子・善性寺 ⑦
歩みを進めると林家三平師匠のご自宅である海老名家も近隣にある。そして、その手前に老舗の御団子屋さんが見えてくる。
創業1819年といわれる「羽二重団子」である。元々、植木職人であった沢野庄五郎が、音無川のほとり「芋坂」の地に「藤の木茶屋」を開業し、往来の人々に団子を供したのに始まる。その団子は二串。生醤油を塗った焼き団子とさらし餡を巻きつけた餡団子の二種類だ。そして、粒の形が一般的な球形ではなく、厚みのある円盤状なのが特徴だ。きめがこまかく羽二重のようだと称賛されている。
このお店の前に碑があり、王子街道と記されている。古くから音無川沿いは、王子への往来が多かったのであろう。
また、向かい側には、日蓮宗善性寺という古刹もある。春になると本堂の鴟尾(しび)と枝垂桜が素敵に競演する寺院である。徳川家とも深い関係がある。そのため、この門前には、旧音無川に架かっていた「将軍橋」という橋の遺構もある。
御行(おぎょう)の松あたり ⑧
羽二重団子を過ぎると根岸方面へ進んでいく。根岸の柳通りあたりからは、かつて、音無川が蛇行していた場所に差し掛かる。
そして、その途中には、歌川広重の錦絵に描かれるほどの古木である御行の松がある。1925年に天然記念物指定された。高さ約13.6m、目通り4.9mであったという。しかし、1928年の夏に枯死し、天然記念物指定は解除となった。残念なことに1930年に伐採されている。その樹齢は約350年であった。現在は、4代目の松が植樹されている。
この先は、右へ左へと蛇行を繰り返しながら進んでいく。今でも区界であることは変わりない。そして、明治通りまで向かうこととなる。その道は、大きな弧を描くように進んでいく。
大関横丁あたり(明治通りを渡る) ⑨
この道を通っていると、大きな弧を描いているために方向感覚を失うことがある。本来真っすぐ進めば、日光街道にぶつかるはずである。そう思いつつ、クルマを走らせるのだが、気が付くと明治通りに行きついてしまう。いつの間にか、日光街道と道が平行になっているのだ。
さて、明治通りと日光街道がぶつかる交差点を大関横丁と呼ぶ。その由来は、黒羽藩大関家の下屋敷が南千住箕輪にあったからだ。
そして、明治通りを渡ると、音無川は、考えも及ばない流れを見せることになる。
三ノ輪橋あたり(日光街道を渡る) ⑩
現在の都電停留所・三ノ輪橋にも名前が残っているように、音無川が日光街道に架かる橋が三ノ輪橋であった。その長さは約10m、幅6mであったという。
音無川は、明治通りを渡ると常磐線の線路に妨げられる。それを避けるように、右に直角に曲がる。そして、かつての三ノ輪橋を越える。
また、その先の浄閑寺にぶつかると、再び、右に直角に曲がるのだ。まるでヘアピンカーブを描くように、流れを北向きから南向きに変えていくのだ。
浄閑寺(音無川・石浜川・思川の三方に分かれる) ⑪
さて、三ノ輪浄閑寺は通称投込寺と呼ばれる。その理由は、安政大地震で吉原の遊女たちの遺体が投げ込まれるように葬られたことに由来している。
この門前で音無川は、いくつかの流れに分かれる。北東は石浜川と名乗る。南東は思川と名乗り、明治通りに沿い泪橋を抜け白鬚橋付近で隅田川に注ぐ。泪川の袂には「明日のジョー」の丹下ジムがあったという設定である。そして、もう1つは、音無川として、日本堤沿いに山谷堀に注いでいたのである。
浄閑寺から南へ ⑫
このあたりの明治通りの南側は、今では奥浅草と新たな名称を名乗っている。これは、地元の台東区が、積極的に観光誘致を進めているためである。
周辺は、かつて「山谷(さんや)」と呼ばれた労働者の町だ。今でも、この地域には簡易宿泊所が多数存在する。労働者たちは、ここで寝起きし、職をあっ旋してもらる。一日仕事をして、再び、ここに戻って来る。そのような生活の場であった。宿(やど)を逆さま読みして「ドヤ」と呼ばれた宿泊所である。しかし、最近、宿泊する人々は、バックパッカーの訪日外国人が多数を占めるようになってきている。
このような理由から、奥浅草は、観光の空白地帯であった。そのため、台東区は、地場産業である靴をはじめとする革製品に焦点を当てて、観光誘致を進めているのだ。
昔に比べると、治安も良くなっていると聞く。
土手通りから日本堤 ⑬
音無川の暗きょ沿い、三ノ輪から浅草にかけての通りを土手通りという。これは、日本橋にあった吉原がこの地域に移転した際に、堤が作られた。蔵前あたりから隅田川を舟で浅草まで到着した人たちは、この堤をいそいそとやってきた。そして、新吉原の大門をくぐり、ときめく世界に入っていくのである。その堤が、日本堤である。
吉原大門あたり ⑭
明暦の大火(1657年)で、日本橋の吉原遊廓は焼失する。そして、幕府は浅草寺北の日本堤付近を移転先に決定する。そのため、日本橋の方を元吉原、浅草の方は新吉原と呼んだ。
周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる大溝があった。幅約9mで、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみとした。外界から隔絶された別天地であったのだ。
また、大門(おおもん)は、吉原への正面玄関である。治安確保の目的もあったが、遊女たちの逃亡を防ぐためでもあった。そのため、出入口はこの大門だけとされていた。
江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設されていた。明治期には2代目となる鉄門が築かれたが、1911年に焼失した。そして、関東大震災を機会に撤去された。現在は、その姿は復元されておらず、交差点名に残っているだけだ。
土手通りから遊郭へは、緩やかなカーブを描いている。これは、遊郭に入っていく人々の姿をはばかったことと言われている。
見返り柳 ⑮
土手通りの衣紋坂入口、ガソリンスタンドの前に柳の木が植えられている。遊び帰りの客が、吉原での出来事に後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、大門を振り返ったという謂れを持つ。現在は、跡地に石碑が建ち、昭和になって植えられた柳が建っている。
日本堤の土手 ⑯
かつて、この一帯は河川の氾濫原であった。現在の石浜神社から待乳山、浅草寺や鳥越神社あたりの高台からなる自然堤防の背後の湿地帯であった。そのため、洪水が度重なり、多くの池も残されていた。その名残が千束池や姫の池などである。
そして、幕府は1621年に待乳山を崩し、周辺に堤防を築いた。今戸橋から箕輪浄閑寺にかけて堤防、これが日本堤である。山谷堀はこの土手の北側にあり、音無川が流れていたのだ。また、土手の上は「土手八丁」と呼ばれる見通しのよい街道となった。しかし、関東大震災の後、1927年に日本堤は取り崩された。
山谷堀公園 ⑰
さて、旅も終焉に近づいてきた。山谷堀(さんやぼり)は、箕輪から大川への出入口である今戸まで造られた。現在は、約700mの「山谷堀公園」として整備されている。
江戸時代には新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで、小舟が遊客を乗せて行き来していた。そのため、吉原通いは「山谷通い」とも言われた。
船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされた。そして、界隈には船宿や料理屋などが建ち並んだ。「堀」と言えば、山谷堀を指した。
しかし、明治時代に遊興の場が吉原から新橋などの花街に移る。そのため、次第に寂れていった。昭和期になると肥料船の溜まり場と化していく。そして、戦後の売春防止法によって、吉原が閉鎖されると1975年までに埋め立てられていく。
9つの残された橋が見せてくれるものは・・・
埋め立てられる前の山谷堀には9つの橋があった。
(今戸、聖天、吉野、正法寺、山谷堀、紙洗、地方新、地方、日本堤の9つ)
また、紙洗橋は、この付近で作られていた浅草紙に由来する。
浅草紙とは、古紙や紙くずを原料にしたちり紙だ。遊女が後始末などに大量の紙を使うため、周辺には作業所があった。そして、職人たちは、紙くずを舟に入れてさらしことを「冷やかす」と呼んでいた。2時間ばかりの作業の間、暇をもてあまして、遊郭に出かける。しかし、登楼するだけの時間がなく、何もせずに帰ってしまう。そのため、買う気のない客を「冷やかし」と言うようになった。
かつては、山谷堀公園は、中央に水が流れる親水公園であった。しかし、リニューアルによって、綺麗な今様の公園に変わった。桜の時期には、桜花が水面に浮かび、そこに逆さスカイツリーが映る景色を見ることができた。この姿が無くなってしまったのは、残念な限りだ。
山谷堀広場(隅田川に注ぐ) ⑱
右手に待乳山聖天の小高い丘が見えてくると、遊興から現実に戻される場所である。今では、スカイツリーがそそり立っている。山谷堀公園が終わりをつげ、今戸橋を越えると大きな広場となっている。ここは、東京都水道局が管理する貯水場でもある。1967年に隅田川に注ぐ山谷堀水門が施工され、手前は広場になっているのだ。
水道局の管理施設の先には、堤防越しに音無川が隅田川に合流していた形跡を見ることができる。ここで、今回の暗きょ巡りは終了である。
夢は暗きょの舟下り(観光業界の将来の在り方は・・・)
さて、物心ついた時から、音無川は身近な存在であり興味関心があった。そのため、何度となく、暗きょを歩いてきた。深堀していくと、改めて知りうる歴史や文化などの情報に触れることができた。
観光業は、インターネット全盛の時代となり、誰もが参入できる業界となりつつある。極論であるが、一度も訪れたことがなくとも、すべてを知っているかのように話をするコメンテーターも少なくない。また、優秀なコメンテーターと言われる方々でも、知らないことは、たくさんあるはずだ。参入障壁が低さによって、中途半端な観光業界人が増加していることは、危惧しなくてはならない。
ディスティネーション・エージェント
最近、観光に携わる者について、考えていることがある。
それは、地域代理人(デスティネーション・エージェント)という地域振興の考え方だ。代理人とは、メジャーリーグ等に日本人が移籍する際に聞かれる本人を代理して、すべての交渉事をすすめる人を指す。この代理人と同じイメージで、地域振興・商品販売する交渉人を育成することを考えてみたい。
まず、地域代理人のすべきことは、以下のようなことと考える。
- 代理すべき地域のことを一番知り得ている存在であること
- 代理する地域を訪問する可能性のあるエリアへの営業活動を継続的に行うこと
- そのエリアに対して、物的・人的な関係性を構築できていること
仕組みは、ドラスティックに変えねばならない
かつては、地元の人々が地域情報を収集して旅行会社に持ち込む。その情報を旅行会社が商品化して販売する。このようなシステムが、旅行商品の構築・販売の主流であった。しかし、一般の製造業のように、商品を買い取るという仕組みは、旅行業界には考えられなかった。旅行会社は、宿泊施設をはじめとする地域のコンテンツを「代わりに売る」だけで、「売れ残ったら、そのままお返しする」というシステムを構築してきた。それ故、売れる売れないに関わらず、責任所在はうやむやになっていた。
しかし、これからは、そのことを払しょくしなくてはならない。責任を持って販売するために、マーケティングを進め、販売先を見極める。そして、仕入れた在庫は、必ず売切る姿勢が必要となってくる。その責務を負うのが、地域代理人である。このことを目的として、成果を上げるには、地域代理人は、地域と販売の間に立ち、双方に強固で深堀された人脈構築ができていることが必須となるのだ。
旅行商品には、特許がない。そのため、旅行会社間でもマネをされたり、価格競争に陥ってしまうことがほとんどであった。しかし、地域側主導で物事を決定できる代理人が味方に付けば、高付加価値を保った最良の商品ができあがる。そして、その先には、大きな利潤が残っていくのである。
より細かなエリアを丁寧に・・・
地域代理人は、大きなエリアを自分のテリトリーとする必要はない。より細かなエリアを得意とする集団が増えれば、より深堀された商品展開ができるはずである。そういった代理人が全国に増えれば、日本の観光業も変化する。それによって、観光業界は、次なるステップに進み、明るい未来を迎えることができる。そう、考えている。
今は、既に蓋をされてしまっている音無川の暗きょ、そこを優雅に舟下りができたら・・・などと夢見ると同時に、プロたる観光業界人が一人でも増えることを望んで止まない。
(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8
取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長