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インバウンドの功罪(1)~ツーリズムメディアサービス特集~

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 国家100年の計である観光立国政策を現時点で評価することはできません。また、国を支える、あるいは、支えてきた産業には多かれ少なかれ功罪があるのだと思います。

 とは言え、観光公害と言う言葉が出てきた時は、目から鱗だったことを思い出します。多くの人の生命を脅かし、後遺症をもたらし、裁判にもなった過去の「公害」と同じ言葉を使ったからです。違和感もありましたが、オーバーツーリズムの重大さを認識し、解決する姿勢を感じることもできました。

 「インバウンドの功罪」というタイトルに適しているかは心配ですが、私の体験に基づき、訪日旅行について書いてみたいと思います。

1980年代の香港発インバウンド

 私は国内旅行畑で育ち、沖縄から北海道までキャリアホールセラーと言われ、パッケージツアーの卸販売を主な仕事としていました。そのため、海外出張には無縁でした。しかし、ANAの国内線を使ったツアーを海外で販売する仕事で、初めて香港へ行きました。インバウンドの仕事です。

 1980年代初めのころなので、ANAの国際定期便はない時代。福岡空港発のITCチャーターフライトを使い、降りたのはカイタック空港。香港の町はイギリスと中国が入り混じった何とも素敵なところでした。隣の深圳も経済特別区に指定されたばかり。魚介類を食べるなら、漁村深圳付近が良いと聞き、食べに行ったことを思い出します。

 さて、仕事は北海道や東北のスキーツアーを在香港のイギリス人向けに企画販売すること。外航が使える現地の旅行会社を営業に回りました。それまではカナダ、欧州へスキーに行っていたイギリス人にとっては、日本へのスキーツアーは安くて、珍しかったらしく取組みはひとまず成功。

香港からの北海道ツアー
香港からの北海道ツアー

 ハイスクールに通う子供たちの大型団体も含み、数百人規模で何年か集客しましたが、一気に縮小したのが1985年のプラザ合意によるドル高是正でした。ツーリズムが為替に翻弄された私の最初の体験でした。

日本はオリエントツアーの1つの訪問国

 ANAの国際定期便が飛び始めた1986年当時、訪日旅行者は年間約206万人で、日本人の海外旅行者約550万人の半分以下。国際線の主力は日本人の海外旅行でした。そのため、旅行会社が訪日旅行に取組むことはビジネス(収益性)としてはそれ程魅力的ではありませんでした。

 今でこそ訪日旅行の大マーケットとなった中国でさえ、団体観光査証の解禁が2000年のこと。アジアマーケットが沸騰するのも21世紀になってからなので、1986年頃の訪日旅行のターゲットは欧米諸国、特に、席数の多い太平洋路線で結ばれているアメリカでした。

 市場調査に全米主要都市を回りました。当時のアメリカ人にとって、日本は一生に一度訪れる「オリエントツアー」の中の1つの訪問国。私のバイブルだったJTBサンライズツアー(訪日外国人向けの日本国内ツアー)のカタログにも、メインコースは東京都内観光。せいぜいBullet Train(新幹線)を利用する京都・大阪へのツアーがあるくらいでした。

 北海道一周、九州一周なども1~2コースあったように記憶しています。しかし、売れることはなかったのではないでしょうか。

インバウンドはブルーオーシャン?

 当時の私の所属していた部署では、初めて手掛ける訪日旅行に異常なくらい盛り上がっていました。当時はそのような言葉はなかったですが、北米からのインバウンドに「ブルーオーシャン」を夢見ていたのかもしれません。

 すぐにロスアンゼルスに訪日旅行専任の駐在員を、なぜかANAの国内線予約端末を置き、現地要員まで採用しました。しかし、なかなかうまく行きません。大きな壁は当時のConsolidator(航空券を大量に仕入れ安値で売る業者)。座席をその業者から買うのがルールでしたが、全く席が取れないのです。

 めげずに北海道へのゴルフツアーの設定を試みました。しかし、訪日したのは、日本でゴルフがしたかっただけの現地の旅行会社のスタッフのみ。こう書くと、次に「どんでん返し」があって、ビジネスが成功するようですが、北米での訪日旅行の取組みは挫折してしまいました。

 しかしながら、この北米でのチャレンジは、インバウンドビジネスを進めていくために、大変役に立ったことは間違いありません。日本までの座席確保という、大変だが一番儲かる業務は現地の旅行会社に任せ、我々は日本到着以降の仕事に徹しました。つまり、ランドオペレーターに徹したことで、香港発北海道スキーツアーと同様、台湾ではエヴァ航空の日本でのランドオペレーターとなり、彼らの日本各地への就航に合わせて年間1万人以上の手配ができるようになりました。

 いずれにしろ1980年代~1990年代の訪日旅行は、旅行会社の力、役割が大きかったこと、収益性よりインバウンドに取組むという「」が支えていたことは間違いないと思います。

 また、インバウンドの取組は、それぞれの国・地域の多様性を知ることができ、国内観光地や宿泊施設などを複眼的に見ることができるようになりました。

観光立国の弁

 ある資料には、世界の海外旅行者数は1990年の4億3,800万人から2019年には14億6,600万人へと約30年間で10億人も増えたとあります。

 ツーリズムには、先進国も発展途上国もありません。世界中の国々・地域が、自らの文化や景観、自然などを磨き上げ、海外へPRし、観光客を呼び込む工夫をしています。観光立国を目指しているのは日本だけではないことは周知の通りです。

 その意味でも、パナソニックグループの創業者松下幸之助さんが、1954年に文藝春秋5月号に寄稿した「観光立国の弁」の慧眼、先見性、合理性には驚くばかりです。詳細は省きますが、アメリカへ約80日間にも及ぶ視察旅行へ出かけ、当時のアメリカと日本との工業力の差の大きさに衝撃を受けた一方、景観の美しさ、文化財の素晴らしさなら負けることはないだろう、と思われたことがきっかけだそうです。

 やはり、実際に「出かけて」「見て」「聞いて」「感じること」「相手を知ること」「世界を知ること」が大事なんですよね。今の我々も肝に銘じなくてはならないことだと思います。

 次回は、観光立国宣言の時からのテーマだったTwo-way Tourism(双方向の交流)、Beyond Japan、観光圏としてのアジアなど愚考を書いてみたいと思います。

(つづく)

(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=17

寄稿者 伊豆芳人(いず・よしひと) ボーダーツーリズム推進協議会会長

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