第2章 東京都北区・赤羽~都営桐ヶ丘アパート~
東京都の人口は、1940年に約735万人であった。終戦には、約349万人まで減少したが、1962年には1,000万人を超えた。この急激な人口増加は、慢性的な住宅不足を生み出した。このような事情から、各地に都営住宅が建設されることとなる。
旧陸軍赤羽火薬庫の跡地に、1954年から76年にかけて都営桐ヶ丘アパートは建設された。5,020戸146棟の東京都最大級の団地である。限られた面積に台所や風呂、居住スペースを配置する画一的かつ効率的なもの。また、フロアの端から端まで移動できる外廊下や2戸ごとに階段がある方式、地上階に商業施設や医療機関などがあり2階以上が住居という特徴的な建物であった。「住みやすさ」を追求した造りは、その後のマンション建築にも生かされていると言われている。
新旧が共存するその姿
隣接する赤羽台団地は、UR都市機構によって、既に新たなマンションに変貌を遂げている。しかし、桐ヶ丘アパートは、まだまだ古き時代を残し、再開発地区と同居している。そして、桐ヶ丘中央商店街周辺は、昭和の時代を彷彿する姿のままである。住人の高齢化、建物の老朽化など、地域の安全・安心を含め、課題は山積みだ。
昨今は、テレビドラマのロケ地となったり、SNSで発信されたり、良し悪しを問わず、映像を目にすることが増えている。
通りを一つ隔てただけで、違った風景が見える場所、これも昭和喪失である。
(つづく)
寄稿者 観光情報総合研究所 夢雨(かんこうじょうほうそうごうけんきゅうじょ むう) 代表
(次ページは桐ヶ丘アパートのある日の風景)
撮影・取材 2023年6月19日