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筑豊で「黒いダイヤモンド」を探せ!~新たな観光振興の起爆剤は、教育旅行誘致~

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1.はじめに

 筑豊とは、筑前と豊前を中心に明治時代以降石炭産業の発展した場所だ。まさしく、日本の近代化の先頭を走ってきた。そして、その中心は、筑豊三都と言われる飯塚市、直方市、田川市、それぞれ炭鉱町を形成していった。

 特に田川市は、筑豊最大の炭都と言われ、その始まりは、1885年の海軍予備炭田となる。そして、地域初の坑業組合となる九州の筑豊石炭坑業組合が成立する。その後、1904年には三井財閥が所有権を取得し、三井鉱山が開業する。

 しかし、栄華を誇っていた筑豊の歴史は、1976年貝島炭礦(旧宮田町)の閉山を以って、その終焉を迎えた。

 前述のように、日本の近代化は、筑豊炭田の歴史でもある。「黒いダイヤモンド」が、明治政府の上からの近代化・殖産興業を推進した。そのため、官営工場を創設し、欧米諸国の仲間入りを目指した。「三井」「三菱」「住友」といった古くからの商業資本に協力を仰いだのも、理由の一つである。そして、日清戦争期には軽工業を、日露戦争期には重化学工業の発展を目指した。その結果、1901年に日本の三大官営工業の一つである「八幡製鉄所」が操業を開始する。

2.後世に語り継ぐために~教育旅行コンテンツの創造~

 さて、平成・令和の時代となり、この刻まれた記憶・記録もだんだんと消え去るようになってきている。しかし、私たちは、この事実を語り継がねばならない使命がある。そのために、この歴史を観光コンテンツ化し、地域振興・復権の一つの手法としたい。

 その起爆剤は、教育旅行誘致だ。

 かつてから教育旅行の世界では、「体験学習」という言葉が実践されてきた。これは、学校内では学ぶことのできないモノ・コトを実体験するものだ。校外学習・移動教室といった特別活動の領域において「事前学習」「本番」「事後の振り返り」という学習カリキュラムを作り上げる。これは、ただ単なる物見遊山ではなく、地域の方々との触れ合いや歴史・文化・伝承や食育等に触れるものである。

 その意味から、筑豊地域における最大のテーマを「日本の近代化」に置き、教育旅行プログラムとして構築することが、後世に語り継ぐ大切なことだと考える。

 では、具体的なプログラムを検討していこう。

(1)石炭産業の歴史を建物から学ぶ(黒ダイヤをめぐる歴史)

 海外列強に並ぶ日本の国を作り上げるために北九州に八幡製鉄所が作られる。そして、その後背地である筑豊地域に豊富に埋蔵されている石炭を工業化のエネルギー源として活用することが検討された。そのために、良質の石炭を掘るために数多くの炭鉱が作られていく。また、そこには数多くの労働力が従事することになる。

 人が集まることによって、新たな需要が生まれ、さまざまな物事が動く。娯楽のための芝居小屋や飲食店、遊郭などが各地に作られる。その結果、労働者たちは、稼いだ金を落としていくようになったのだ。

 この歴史的遺産を学習することが地域を知ることにつながっていく。

a) 各地に残る炭鉱遺跡

 筑豊地域は、県内においても太宰府のように万人が好む全国区の観光地に乏しい。そのため、炭鉱史跡をいかに巡らせるかが重要なこととなる。

 今では地域開発が進み、かつての炭鉱住宅などは、跡形もなくなっている。しかし、炭坑だけが、残されたものではない。田川市石炭・歴史博物館や直方市石炭記念館などの展示品などを見学することも導入教育となる。

 また、インタープリター(説明人)による解説が、学習的効果を高める。それ故、地域におけるインタープリターの充実・養成が重要なことである。

京都の修学旅行は、説明人がきちんと付き、学習的効果を高めている
京都の修学旅行は、説明人がきちんと付き、学習的効果を高めている

b)芝居小屋(嘉穂劇場)

 国内のさまざまな鉱山都市には、娯楽としての芝居小屋が形成されてきた。特に飯塚の嘉穂劇場は、収容人員1,200名を誇り、1931年に開業した国内でも有数な芝居小屋である。NPO法人による運営をされていた。しかし、残念なことに、2020年末コロナ禍の影響で法人が解散してしまった。

 国の登録有形文化財でもあり筑豊の代表的な文化拠点は大切なコンテンツだ。

c)駅前商店街

 石炭輸送によって、網の目に張り巡らされた鉄道網は、町に活気を与えた。駅前に商店街ができ、点から線、面へと発展を見せてくれた。

 しかしながら、周辺の道路網の整備が進み、クルマ社会が進行する。その結果、生活圏は、郊外型のショッピングタウンに移る。一方、人の動きが乏しくなった駅前商店街は、そのほとんどが消滅の危機を迎える。

田川後藤寺駅前の商店街、今ではシャッター通りになっている
田川後藤寺駅前の商店街、今ではシャッター通りになっている

 昨今、商店街全体を一つの旅館ホテルと見立て、地域振興を進めている場所が増えている。特に大阪府東大阪市の事例は先進成功事例として、それをまねる地域も少なくない。東大阪の成功は、その地域の経済圏人口率が高いことにある。そのため、筑豊に、そのすべて真似てみることは難しい。しかし、先進事例から学ぶことはできる。

d)遊郭(直方・二字町、田川・栄町、飯塚・西町など)

 人が集まる場所には「飲む」「打つ」「買う」ための施設が作られる。特に赤線や青線といった風俗街は、いづこでも形成されてきた。そして、世俗社会の隣には、必ず「食」の町が繁栄していく。その結果、労働者たちの遊技場として、朝な夕なに光が当たるのだ。世の中の「陰」として、その歴史を隠すのではなく、反映してきた拠点としての歴史的な意義を学ぶ。それが、違った目線・角度から町を見ることができると考える。

(2)長崎街道(シュガーロード)から学ぶ(砂糖をめぐる歴史)

 江戸時代までは、和三盆を中心とした和風の甘味が主流であった。しかし、明治期に入ると海外から砂糖が輸入される。洋風の甘味が長崎に輸入される。そして、それを日本全国に広げるために北九州の港までの陸上輸送道路として、長崎街道は繁栄していく。まさしく、砂糖が運ばれる道として、シュガーロードを称されるようになった。その効果は、街道沿いに、数多くの和洋各種の菓子文化を根付かせる。

 その結果、筑豊の飯塚や直方、田川に数多くのお菓子屋さんが出店する。(ひよ子、千鳥屋、さかえ屋、成金饅頭、黒ダイヤ羊羹、チロルチョコなど)

 これらの工場見学やお店の方からの話によって、お菓子の歴史(ひいては食育教育への展開も)を学ぶことができる。

(3)石炭産業の輸送システムから学ぶ(舟運から鉄道輸送への歴史)

 筑豊の良質な石炭を全国各地に運び出すための輸送手段の確立が必須となる。加速度的に拡充する石炭産業は、北九州にとどまらず、変化を遂げていく。その歴史を学ぶことによって、現代のクルマ社会や未来社会への対応も考えることができる。

a)舟運の中心・遠賀川

 鉄道網が発達していない明治初期においては、遠賀川から若松港への舟運が、石炭輸送の中心であった。「ひらた船」という木造船が活躍し、数多くの石炭が運ばれていった。これが筑豊の特徴と言える。その中でも、直方は石炭の集積地となり、問屋的な役割を担うこととなる。

b)網の目のような鉄路

 明治政府は鉄道網を整備することに重点を置いた。その結果、前述のように筑豊地域においても、輸送能力の高い鉄道の敷設が進んだ。最盛期には、筑豊地域全体が網の目のように鉄路が敷かれて行く。大量輸送を可能とする長い編成の貨物列車が何本も走る。そのため、駅には、長大なホームが必要となった。その名残は、旧国鉄時代からの駅の各所で、今でも見受けられる。また、若松港だけでなく、苅田港へのルートも模索されていく。日豊本線の行橋に向かう鉄路である。

 現在、平成筑豊鉄道が線路を引き継いだ旧伊田線は、大動脈の路線であった。そのため、直方から伊田まで全線が複線である。また、行橋までの旧田川線には、九州島内で一番古い「石坂トンネル」もある。石炭の大量輸送の利便性を最大限に実現できるよう鉄路は敷設されたのだ。

1987年、国鉄民営化前後の筑豊鉄道網
1987年、国鉄民営化前後の筑豊鉄道網

 そして、長い編成の貨物列車をスムーズに運行するために、路盤も強固にされている。このことは、筑豊地域の鉄路の重要性を物語るものでもある。

経済圏人口を比較してみよう

 筑豊と北海道の中心部は、それぞれ、炭坑町として発展してきた。ここでは、双方の人口の推移を検証してみることとする。

 筑豊は、福岡と北九州という経済圏を保有するのに対し、北海道も、札幌と旭川という経済圏を保有している。別表のように、代表的な市町の現在の人口と最盛期の人口を調べてみた。いずれも1980年代に最盛期を迎える。しかし、そのほとんどが、現在は減少傾向にあり、80~90%前後で推移している。

筑豊と北海道における経済圏人口の比較
経済圏人口の比較(筑豊と北海道の代表的な炭坑都市)

 北海道に敷かれた鉄道網は、1987年の国鉄民営化に際して、ほぼ消滅した。その結果、その沿線人口は大きく減少している。一方、筑豊も一部の路線は廃止された。しかし、大動脈である現在の平成筑豊鉄道のほか、未だ活躍中の路線も少なくない。

 その理由は、大学や工場誘致、郊外型のショッピングタウンの開業などによって、地域に根付いた人口流出を防ぐ施策も具現化されているからだ。そのため、鹿児島本線のバイパスとして、博多と北九州を結ぶ福北ゆたか線も建築されている。人口減少に歯止めがかかっているのは、新線建設にもあると言える。

 そう考えると、筑豊には石炭輸送の生きた証人が、まだ残っているのだ。

輸送手段の変化が、町を破壊していった

 しかし、エネルギー源が石油に変化した結果、石炭産業は衰退する。同時に、国鉄の赤字も膨らみ、JRに移行した1987年以降、路線の廃止や第三セクターへの転換が加速度的に進んでいく。

 また、鉄道からクルマ社会への移行によって、地域の交通手段も変化していく。鉄道は地域密着を目指すようになる。駅間距離を短くして、地域住民の利便性を高め、新たな駅を作る。そして、運行本数を増やすことによって、地域の路線バスを凌駕する取り組みを進めている。

 平成筑豊鉄道沿線の史跡を巡ることや既に廃線となった鉄路を巡る旅、未完成の鉄路を巡る旅(赤村油須原トロッコなど)も学習的な効果は高いものと考える。

平成筑豊鉄道の金田駅(石炭輸送の主要駅だった)
平成筑豊鉄道の金田駅(石炭輸送の主要駅だった)

3. 教育旅行プログラムの造成を進める上で

 さて、昨今、国内外の観光客が求める旅行形態は、ホンモノ体験と言われる。着地型観光とも言われ、地方自治体なども積極的に、その創造を進めている。

 かつてから教育旅行プログラムは、求められる着地型観光コンテンツと共通するものが多い。児童・生徒を対象とした学習的効果を高めるプログラムは、ホンモノ志向の旅行をしたいというニーズに合致する。それ故、大人の修学旅行という言葉によって、一般の個人・団体にも人気がある。そのため、全国各地でコンテンツの磨き上げが行われ、しのぎを削っているのである。教育旅行プログラムを作り上げることは、地域の新たな宝物を探し当てることにもつながるのだ。

学習的効果を高めるために構築された体験学習

 顕在需要と言われる修学旅行は、大手の総合旅行会社の「ドル箱」と言われてきた。そのため、他社を凌駕するための新たな修学旅行の仕向け地を構築してきた歴史がある。そして、そのことが日本の観光旅行の「道しるべ」と言っても過言ではない。前述のように、体験学習をプログラム化して、独占販売できる仕組みを構築してきたのだ。

 特に修学旅行のメッカと言われる京都や奈良において、独自の体験学習プログラムを構築することが、市場を席捲することにつながる。同時に、売上高の拡大につながったのである。

地方創生の時代・・・自治体に求められるものは

 一方、地方自治体においても観光客の誘致が必須の時代が到来した。金太郎飴ではなく、ほかの地域とは違った唯一無二の観光原石を見出す。そして、観光客の好む素材に磨き上げることが必要となった。地域への経済効果を高めることこそ、求められる姿になったのだ。

 世の中は地方創生の時代となった。観光による経済効果の拡大こそ地域が潤う。そして、この観光振興を大手の旅行会社が目を付け、地方自治体の思惑と一致させたのだ。

地元の観光コンテンツ探しが必須に

 これまで、旅行会社は、発地型観光といって、お客さまを観光地に出向かせることに傾注してきた。それは、地域情報が乏しい時代の旅行形態であった。すなわち、お客さまより旅行会社の方が情報を数多く持っていたからである。

 しかし、インターネット社会が伸長し、増加する訪日外国人も独自情報を仕入れることが可能となった。そのため、国は地域の観光コンテンツの発掘にシフトを切る。

 これに対応するために、旅行会社各社は、着地型観光と称して、地域の宝物探しに奔走する。この地域の宝物は、これまで修学旅行で行われてきた体験学習的なものが多く、訪日外国人からも好まれるものである。

 そして、全国の自治体も、国内外の観光客に対して、着地型観光コンテンツの発掘・商品化を進めることとなる。

 しかし、着地型観光は、教育旅行の体験学習とイコール(完全一致)とはいえない。

似て非なるものは、同一視してはいけない

 教育旅行は、新規仕向け地がきちんと安全・安心を担保されていることを重要とする。例えば、地域内に安心して宿泊できる施設があることや同一行程をとることができる観光施設、貸切バス会社も必要である。特に宿泊施設については、一般客との接点がないことや学校全体が一つの施設に泊まることができることも重要となる。

 また、修学旅行の業者選定システムが特殊である故に、教育旅行誘致は、その効果が出るまでに長い時間がかかることを理解しなければならない。ここが訪日外国人をはじめとする一般の旅行と違うところである。

4.具体的なプログラム造成について

(1)スケジュール

 教育旅行プログラムの営業活動は、毎年2月下旬から始まる。これは、4月からの新学年が発足し、さまざまな学校行事を決めていくからだ。春の遠足を「どこに」「どういった方法で」「どこの旅行会社で」実施をするか、ということである。

 特に、遠方への修学旅行は、2年前から実施時期や方面選定が始まる。

(2)地域の受け皿

 修学旅行市場は、大手総合旅行会社の寡占状態と言われる。しかし、一部業者が独占しているわけではない。また、業者選定に偏りがあると、昨今は「癒着している」などと懐疑的に思われることも少なくない。

 そのため、この着地型観光コンテンツの造成主体は、地域の会社が行うことが望まれる。NPOや広域の観光協会、地域の旅行会社が、受け皿となり、ハンドリングすることがベストである。

 当然、NPOでなくともDMOが形成されていれば、DMOがその役割を担えばよい。また、田川広域観光協会のような広域の観光協会組織もその任を果たすことはできる。

 このような地域の受け皿会社が、地域素材を収集し、教育旅行プログラムとして商品化する。そして、できあがった商品を全国型の旅行会社に販売してもらう仕組みを構築するのだ。全国型の旅行会社が、プロモーションを進めることによって、販路は広がっていくはずだ。しかし、いずれかの旅行会社とタッグを組むことは、その会社しか販売できないというデメリットを生じることとなるので、良し悪しである。

5.セールスターゲット(マーケッティング)

(1)地元の小中学校

 まずは、福岡県内(できれば筑豊の域内)の小学校や中学校に独自に営業をかけること。その理由は、実施する学校数を増やすことが重要であるからだ。地域の自治体にもプログラムの構成団体として参画してもらい、その地域の小中学校が実施する。これは、実証実験でもあり、プログラムの信頼性を高めることができる。

(2)地域外の中学校や高等学校

 次に、最低限、第3種地域限定旅行業登録をする会社を有することがより良い仕組みづくりとなる。そして、総合旅行会社に作り上げた企画をセールスすることが次なる一手だ。県外へのセールスは自前ではできない。そのため、いずれかの旅行会社の力を借りるのがベストである。

 域内の学校で実施した実績が全国展開する自信となる。充分な準備を行なって域外への営業活動を進めるべきだ。

(3)最終的なターゲット

 地域内の小中学校での実証実験が終了すると、地域外へのセールスも可能となってくる。そこには、エリアマーケティングが必要となる。筑豊を目的地として、方面を検討できる地域は、どこになるのだろうか。

 私立学校は、理事長などの経営者の考え方で方面変更が可能だ。しかし、地域全体の動きとはならず、大きな成果を生み出すことが難しい。やはり、地域を絞り公立学校をターゲットとすることがベストである。

 筑豊を目的地とする可能性のある場所、それは、同一経済圏人口が巨大な地域である広島圏や関西圏をターゲットとする営業活動を進めることが重要である。この営業活動が成果を上げれば、2、3年後に筑豊に修学旅行の子供たちはやって来るのである。

 人流こそ、地域を復権させる原動力だ。

 昨今、「昭和喪失」と言われて久しい。それは、日本の国を世界と肩を並べることを実現してきたモノ・コトが消滅し続けているからだ。しかし、この時代を再認識することによって、私たちの未来、そして、それを引き継いでいく子供たちにつながっていく。

教育旅行の仕組みを理解し、コンテンツ作りを

 自ら汗をかいて、町を活性化させることこそ、将来につながる取り組みになることであろう。

 「教育旅行誘致」、地域の活性化につながる仕組みの構築とコンテンツ探しは、クルマの両輪として、推進していかねばならない。そのためには、単一自治体が推進するのではなく、「筑豊」全体が一丸となって、新たな仕掛けを始めねばならない。その一助となれば・・・。

田川伊田駅(かつての国鉄の駅は、長大貨物列車ができるように、ホームがとても長い)
田川伊田駅(かつての国鉄駅は、長大貨物列車ができるように、ホームがとても長い)

 次回以降は、コンテンツ探しのために、域内の個別の取り組みに焦点を当てて、ご紹介していくこととしたい。

(つづく)

(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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