お初にお目にかかります。私、生まれも育ちも東京下町、三代続くちゃきちゃきの江戸っ子でございます。
子どものころからおせっかいなおばちゃん気質。その上、風の向くまま気の向くまま、思いたったら、フラッとどこかへ出かけてしまう自由人気質が、どこかの誰かに似ていると、気づけばいつのころからか「フーテンのトラ子」と呼ばれるようになりました。
こんな異名を持つ私が、いまから7年前、ひょんなご縁で九州佐賀県からお声をかけていただき、あろうことか自由とは真逆にある行政機関でお仕事をさせていただくことになりました。「腰の座らないアンタのことだから、どうせクビになって、すぐに帰って来る」そんな家族からの見送りの言葉を受けながら、気づけば今日まで7年間、立場は変わりつつも佐賀で暮らしております。
今回は始めましてのご挨拶に変えて、佐賀での私の7年間の動きについてお話しさせていただこうと思います。
そもそも、佐賀に来るきっかけとなった仕事が、佐賀県の外郭機関に新設された農業関連部署でのコーディネーターで、ミッションは「佐賀県内の農家たちを活性化させるための支援」というものでした。
このころの私は、「農産物の流通を通じて、農村部と都市部を繋ぎたい」と全国の農家を訪ね歩くようなことをしていましたが、実は、農業に対する専門分野や特別な経験があったわけではありません。その上、役所とか行政という組織のもまったく縁がなく、いったいどんなことをしたらいいのか、まったくわかっていませんでした。ただ、この仕事を紹介してくれた方から「髙尾さんのようないかにも怪しい自由人が、県の名刺を持って働くチャンスなんて、この先一生ないと思うよ」という言葉と、「癖(へき)」ともいえる自分のおせっかい気質を思う存分発揮できる仕事のようだという、なんとも不真面目な理由で佐賀に来ることを決断しました。
そして、私は気づいてみたら佐賀県に住み、毎日、県内を走り周って、老若男女、多くの農家たちと会って話を聞き、語り合い、農家の多くいる集まりにお邪魔しては話に参加させていただく日々を送ることになります。
そしてこの時期幸いだったことは、行政とは思えない、ユニークで頭の柔らかい上司たちに恵まれたので、思いつくまま様々なことを提案し、企画を立ち上げ、農家以外のいろんな方を巻き込みながら、思う存分暴れさせていただくことができました。この最初の仕事の楽しさが、私を佐賀に留まらせ、いまに繋がる礎になったのだと思います。
そして、3年の任期を終えた4年目には、佐賀県の地域活性化部門に転職。地域を盛り上げたい、地域活動をしたいという人たちを支援するお仕事をさせていただくことになります。そもそも前職の繋がりからの転職だったので、ほぼ前職からの延長のような形で、ここでもまた、あちこち飛び回り、口も手も出しまくりながらおせっかいの限りを尽くしました。
その後は、まぁ、いろいろ思うところがあり、組織から飛び出し、「おせっかいを仕事にする」と大見得をきってフリーになり、『トラの巻』という屋号を引っ提げ、さすらいのコーディネーターを名乗っております。
今は、茶どころ嬉野の若手茶農家16名ではじめたプロジェクトや、旅館組合青年部との取り組み、農業者を飲食店と繋ぐプロジェクトなど、迷える人たちと共に迷いながら、課題解決に向けた企画を提案、仕組みを考えて運用するところまでをお手伝いしています。
近しい人たちにさえ「コーディネーターってどういう仕事なのか」「結局何を仕事にしているのか」と言われるように、なかなか見えにくい仕事ではありますが、いままで多くの方から聞いた想いや、語りあってきたこと、協議されてきたことを何らかの行動に移していくためには、調整していく人、つまりコーディネーターは絶対に必要だという信念の元、日々奮闘しております。
この度、ハンドレッドリンクスに連続寄稿させていただくにあたり、おせっかいコーディネーターが、これまで佐賀という地方を走り回りながら、見てきたこと、感じていること、体験したこと、またそこから生み出してきた取り組みなどご紹介させていただくことで、地域活性、地方活性に悩める方々に、何かヒントになることをお伝えできたらと思っています。
どうぞお見知りおきください。