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平成芭蕉の「令和の旅指南」㉔ 世界遺産を目指す飛鳥の女帝物語

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~日本国創成のとき-飛鳥を翔(かけ)た女性たち~

世界遺産を目指す「飛鳥・藤原の宮都」の日本遺産

「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」は、奈良県内で4件目の世界文化遺産の登録を目指している遺跡群で、古墳時代の終わる6世紀末から平城京へ遷都する約100年間に、中国・朝鮮半島との交流や、中央集権体制を採用した国づくりが行われたことを示す多くの遺産があります。

そして、飛鳥といえば、飛鳥時代に活躍した女性たちの物語「日本国創成のとき-飛鳥を翔(かけ)た女性たち-」(奈良県明日香村・橿原市・高取町)がすでに日本遺産に認定されています。

飛鳥時代は力のある豪族の争いが絶えず、そこで天皇が中心となって日本を治める仕組み作りを始めた時代でしたが、女性を受容した新進の時代でもありました。推古女帝に始まり、斉明(皇極)女帝、持統女帝と複数の女帝が誕生し、豊かな感性で、政治にかかわったのも古代飛鳥であり、宗教や文学においても女性たちの活躍を抜きにしては語れません。

日本遺産「飛鳥を翔(かけ)た女性たち」
日本遺産「飛鳥を翔(かけ)た女性たち」

最初の女帝「推古天皇」の活躍

最初の女帝、「推古天皇」は豊浦宮という宮殿に住みましたが、それは現在の明日香村豊浦にあります。彼女は頭脳明晰な厩戸皇子(聖徳太子)と、渡来人との結び付きが強い豪族の蘇我馬子という、ふたりの大物政治家と協力体制を築きます。

そしてまず仏教を公認、百済や高句麗の僧たちから大陸文化を吸収し、さらに隋が中国を統一したのを機に、交流が途絶えていた中国からも最新文化を取り入れようと小野妹子を遣隋使として派遣します。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」で始まる国書は、隋の煬帝を激怒させましたが、彼は使者を日本に派遣します。

その使者である裴世清は開眼前の「飛鳥大仏」の様子などを煬帝に報告したとされ、推古女帝は隋と国交を結び、独立国の地位を守りながら国内の整備を続け、巧みに国の繁栄を図ったのです。

飛鳥大仏
飛鳥大仏

百済救援のために九州に赴いた斉明天皇

 次に「皇極天皇」は一度退位するも再び飛鳥の地で即位(重祚)し、「斉明天皇」として社会を守りました。斉明女帝は、大化の改新を推進し、国際的な都市造りをめざして、飛鳥各地に次々と宮殿を造営しました。彼女は石の持つ永遠性に惹かれたのか、飛鳥宮跡、飛鳥水落遺跡では石材をふんだんに使っており、「岩船」や「酒船石遺跡(亀形石造物)」、「高取城跡猿石」といった奇妙な石造物も造っています。また大運河「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」は、性急な土木事業として非難を浴びましたが、田畑の水路や、敵の侵入を防ぐ濠として転用できるように計画されていました。

日本社会の基礎を築いた天武天皇と持統天皇

推古天皇から始まる女帝の改革は、672年の「壬申の乱」を経て、天武天皇の妃であった「持統天皇」の代に結実します。天武天皇は、律令制の導入に向けて制度改革を進め、飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂を始め、「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇です。

そして、天武天皇の崩御後は、「持統天皇」が天武天皇の意思を引き継ぎ、美しい都「藤原京」を完成させ、貨幣制度や戸籍、税制度の確立、そして「律令」の整備など、今日の日本社会の基礎は持統女帝によって作り上げられたのです。

さらに天皇が代わるごとに宮を遷り替えていた制度も廃止、そして現在まで続く伊勢神宮の式年遷宮も、天武天皇が発案し持統女帝によって実現した伝統文化です。

私の好きな万葉歌の一つである「春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山」(『万葉集』巻1-28)は、持統天皇によって詠まれた歌ですが、彼女は大化の改新を行った中大兄皇子(天智天皇)の娘です。

一般的には「香久山に白い衣が干してあり、いつの間にか春が過ぎて夏になりました」という意味ですが、「春」を天智天皇の時代、「夏」を天武天皇・持統天皇の時代とし、新しい時代の到来を祝う歌とも言われています。

ちなみに香具山は、持統天皇が政治を仕切っていた藤原京から東に見える、畝傍山、耳成山と並ぶ大和三山の1つで、天から人が降りてきたという伝説があったことから天の香具山と呼ばれています。

天武・地頭天皇陵(檜隅大内陵)
天武・地頭天皇陵(檜隅大内陵)

「飛鳥を翔(かけ)た女性たちの物語」こそ真の世界遺産

701年に持統天皇は崩御しますが、数少ない女帝のなかでも、男性顔負けの政治手腕と人材登用で律令国家を形成し、女性ならではの「愛情」を込めて日本を繁栄に導いたのは持統天皇です。

「日本初」の多い持統天皇ですが、「愛国」という言葉を始めて使った日本人は彼女であり、崩御後も天皇として初めて荼毘(火葬)に付されています。仏教が広まる前は土葬が主流で、持統女帝が火葬を希望したのは仏教の興隆者であった天武天皇の影響と言われています。さらに、夫との合葬は、宣化天皇と橘仲皇女に次ぐ2例目という珍しいもので、天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)に夫婦揃って眠っています。

常に夫に寄り添い、夫を立て、行動力もあり、初の太上天皇として数々の功績を残した持統天皇は、現代の日本が求める真の政治家の姿だと思います。そこで日本を律令国家に導いた持統天皇を始めとする「飛鳥を翔(かけ)た女性たちの物語」は、数ある日本遺産の中でも世界に誇れるストーリーであり、これら女帝の活躍物語こそ真の世界遺産かと思います。

※メインビジュアルは、日本で最初の都「藤原京」

寄稿者 平成芭蕉こと黒田尚嗣(くろだ・なおつぐ)クラブツーリズム㈱テーマ旅行部顧問/(一社)日本遺産普及協会代表監事

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