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中世が生きるルーマニアのマラムレシュを巡る

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ルーマニアを200回も訪ねているという写真家みやこうせいさんの案内で、このヨーロッパ東南部の国へ何度か訪れた。日本から空の直行便は無く、かなり遠い存在だが、国のイメージに吸血鬼伝説のドラキュラや、独裁大統領チャウシェスクを挙げる人が多い。いまは内乱も無く穏やかな国で、北部のマラムレシュ地方は中世の生活が残り、訪れる人びとの旅情をそそる。もちろん日々の暮らしにクルマはあるが、農作業などには馬車が幅を利かせている。写真のように畑仕事から帰り道、子馬も一生懸命。旅人もよく出会う日常の風景だ。日本の里山のような風景が目に映る寛ぎのふるさとに、世界遺産の修道院や古い教会があちこちにある。山岳地帯を毎日走る観光用のSL列車ツアーは大変人気だ。(上記写真:山積みの草の荷を積んだ馬車=マラムレシュ地方で林写す)

煮込みスープがうまく、アルコール40度以上の酒で乾杯「ノロック!」

ルーマニア一番のグルメはスープだ。地方を旅すると宿でも肉団子や野菜たっぷりの煮込みスープがよくふるまわれる。ルー(スープ)のマニアが多い国などと言ってみる。ロールキャベツ、ソーセージ、ビーフシチューなど肉料理中心に食卓をにぎわし、まずは伝統の酒ツイカ。ドラキュラ由来で知られる中部のトランシルバニア地方の家庭で古くから作られている果実蒸留酒だ。原材料のプラムは糖度が高く甘いまろやかな口当たりがして、添加物を使わず天然100%で健康にも良いと言われるが、酒は酒。アルコール40度以上と高めのストレートでグイっ。ルーマニア語で乾杯「ノロック!」とグラスを交わしながら、ツイカ、ツイカ、追加、追加と言って思わず酒量が進む。

国の起源は石器時代に始まり紀元1世紀にダキア人という民族の王国が現在のルーマニア領土を支配する。その後ローマ軍が征服し「ローマ人の子孫」として国名が付けられたという。漢字表記で羅馬尼亜だ。ドナウの大河流れる肥沃(ひよく)な大地で、さまざまな民族の勢力争いが繰り返された。エッセイストでもあるみやさんが著書に綴る「ヨーロッパの故郷」は、古い歴史と文明が脈々と息づく異文化の往来する交差点となった。

「世界で最も陽気」な墓地サプンツァ 素朴でほほえましい絵がずらり

マラムレシュ西端の寒村に「世界で最も陽気」と言われる墓地サプンツァがある。ずらりと並ぶ木製の墓碑に埋葬者の職業などの絵が思い思いに描かれ訪問者を迎える。農作業や愛馬に囲まれた自画像や風景が多いが、教会の祈りをはじめ食卓の団欒(だんらん)、酒飲みの語らい、料理、読書、親子連れなど、ほほえましく素朴な描写の墓碑群だ。野良仕事、芝刈り草刈り、鋤鍬(すきくわ)の農夫、羊飼い、牛の乳しぼり、糸紡ぎ、機織り仕事、木工職人、レンガ積み、壁塗り、大木伐採の木こりや猟師、教壇の教師、会社の部長、郵便配達、量り売りの商店、鉄道工夫など、この村の生活や仕事ぶりがよく表現されている。碑はブルーを基調に赤、緑、黄、黒、グレー、白の色とりどりに雨露をしのぐ三角のひさしが特徴だ。ヴァイオリンの楽士たち、ホルンを吹きながら愛犬と遊ぶ風景など陽気な墓にふさわしい絵が並ぶ中になぜか、短刀で男の首を切り落とした恨みに満ちたおどろおどろしい情景も並ぶ。

「世界で最も陽気な」墓地サプンツァ

ドラキュラのモデルの生家はレストランとして営業中

首都ブカレストがあるルーマニア南部地域を治めた15世紀ワラキア国の君主は、敵対する貴族や国の兵士を生身のまま杭に串刺す処刑で「串刺し公」と恐れられた。悪魔ドラキュラの異名を持つ。悪魔に描かれたドラゴン(龍)由来で名付けられた。犠牲者の血を活力にする吸血伝説をもとにアイルランドの作家ブラム・ストーカーが小説「吸血鬼ドラキュラ」に仕立てた。世界遺産都市シギショアラにあるドラキュラのモデル生家という建物は、いまレストランを営業中だ。

北東部ブコヴィナ地方のフモール修道院

この国の歴史は安寧でなかった。国の形がほぼ四角になったり細長くなったり、たびたび近隣の列強に制圧された時代もあった。日本は南北に細長く、教科書の地図は幼少のころと今まで、太平洋戦時を除いてほぼ同じ形だ。いまのルーマニアは、四角形のような、魚の形にも見える、北の国境がウクライナ、東はモルドバと接し、西はハンガリー、セルビアだ。中央部をカルパチア山脈が西のセルビア国境から東西、南北にウクライナへ2,500m級の山々が続く。

南のブルガリア国境に沿うドナウ川は東端で黒海に流れ込む。ロシアが侵略したウクライナのクリミア半島を遠くに望むドナウ・デルタ地方はペリカンの群れやコウノトリが飛ぶ巨大な水の公園、湿地帯だ。全土の3分の2は平原となだらかな丘の穀倉地帯で農耕牧草地が6割、森林山地3割、湖沼1割弱。

マラムレシュの山奥を走るヴァセル渓谷森林鉄道の観光SL

第2次世界大戦はナチス・ドイツの圧力で枢軸側に加担し連合国に参戦。戦後、労働者党(共産党)の一党独裁となりソ連圏に組み込まれスターリン主義体制のもと強制的な工業化政策を実施したが1960年代初めころから次第に外交の自主路線が進む。

独裁者・チャウシェスクの生家や墓を訪れる人も

独裁体制を意のままとしたニコラエ・チャウシェスクは貧農に生まれ共産主義青年同盟で活動。第2次大戦中は獄中にあり、クーデターを経て65年に47歳の若さで党第一書記になって権力を握り初代大統領も兼任した。ロシアから距離を取り西側諸国とも関係を築きながら国内は独裁の威を借りて巨大建物など思うままに造った。首都ブカレストにある生家や墓は、いまも整備され訪れる人が少なくない。

80年代に経済不振に陥ると生活水準の低下など不満が高まり、89年暮れ、デモが全国に波及したルーマニア革命で政権は崩壊、チャウシェスクと第一副首相のエレナ夫人は逮捕され死刑の宣告を受け,ただただちに処刑された。91年に新しい憲法が承認され、その中に、ルーマニアは資本主義経済に基づく言論・宗教・所有の自由がある共和国、と記載される。

石鹸の山が中に入った石碑=シゲット市内のユダヤ人墓地で

今年5月、ロシアの干渉疑惑でやり直しになった大統領選挙で、親EU (欧州連合)で中道のブカレスト市長が、極右候補を破った。ヨーロッパで右派勢力の台頭が進む中、隣国のウクライナを支援する路線継続が示された。

国境を接するウクライナへ足を伸ばす、戦火を逃れた街は平穏

ウクライナへ歩いて橋を渡り何度か国境を超えてみた。警備隊兵士の検問は厳しく、未整備の凸凹な道が目立つが、戦火から離れたウクライナ西部の街は平穏で、点在する商店の街道筋をホットパンツの若い女性たちが闊歩し旅人に愛嬌を振りまく。

マラムレシュの州都シゲットなど、どの街にもユダヤ人墓地がある。アウシュビッツで犠牲になったユダヤの人びとの体から搾り取る油で作ったと伝えられる石鹼の山を収めた石碑が多数の墓碑とともに並ぶ。ナチスの悪夢を忘れまいと、この石碑は犠牲者何万人分かの墓という。

多くのロマに出会い、民族差別の歴史に思いを馳せる

ヨーロッパの東に位置するルーマニアは多数のロマが住み、ツアーの移動中にもよく出会う。放浪の民族などとみなされてきたロマは、いま定住生活が増えた。各地にロマの集落があり国境を越えた強い繋がりから独自の文化を形成する。これまで国を持たず転々と移住する集団とされ、どこへ行っても部外者、よそ者扱いされ迫害された。各地や各界を渡り歩くジプシーと呼ばれ、人身売買や貧困をもたらし、犯罪が増えるなどと非難され移住先から追い出されてきた民族差別の歴史に思いを馳せる。

日本からトルコ、カタール、エミレーツ(アラブ首長国連邦)など航空会社の便で、それぞれイスタンブール、ドーハ、ドバイで乗り継いで首都ブカレストに入る。ここからマラムレシュの州都シゲットなどへ夜行列車の旅も楽しみの一つだが、運転手付きマイクロバスをチャーターしたグループの国内ツアーが一般的だ。

写真・文 林 莊祐

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