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ボーダーツーリズム(国境観光) 第3章 稚内赤レンガ通信所

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 歴史ドラマに取り上げられ視聴率が取れるのは戦国時代と明治維新と言われます。その中でも、京都は、その両方の舞台となります。例えば、東京からの新幹線が京都駅に近づいた時に見えてくる東寺はいいものです。いつもわくわくします。京都の歴史は、旅のテーマとしても超ド級、超A級なことは間違いありません。

 とは言え、ドラマに取り上げられる歴史だけが、日本の歴史ではないことは言うまでもありません。

 大河の流れではなくても支流や土砂が堆積してできた大小の湾処にも小魚たちが住み、水草が繁殖しているのと同じように、日本の国境・境界地域には些細だけど、興味深い史実や史跡があり、人物がいます。

ひっそりと佇む稚内赤レンガ通信所

第3章 稚内赤レンガ通信所

 その一つが、稚内赤レンガ通信所(正式名:旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所)です。稚内空港からわずか5kmほどの丘陵地に今でもひっそりと建っています。そして、この通信所は太平洋戦争開戦前夜、真珠湾攻撃を指示する暗号電文「新高山登レ1208(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)」を中継した通信所。また、終戦間際には硫黄島からの決別電報も傍受したと伝えられています。

 終戦後、米軍キャンプとなり、その後は国の管理を経て稚内市が所有。稚内市歴史・まち研究会が修理・修復のためのクラウドファンディングなどにより保存活動を行っています。太平洋戦争を知り、戦争の悲劇を語り継ぐ大切な史跡であり物語なのです。残念ながら、観光客が訪れることはあまりありません。

訪れてみて、見えてくるモノ・コトは・・・

 そうゆう私も初めて訪れたのはボーダーツーリズムに関わるようになった2018年9月のこと。緑濃い丘陵地にたたずむ朽ち果てそうな赤レンガの建物は一見の価値がある史跡でした。

 また、市の教育委員会の方の丁重な説明により理解も進みました。日本の国境・境界地域の知られざる史実、史跡、人物を紹介し、語り継いでいくこともボーダーツーリズム推進協議会の大切な役目だと意を新たにしたことを今でも覚えています。

 訪れた日は日曜日でしたが、偶然、稚内市街では駐屯する自衛隊と市民との交流会が開かれていました。市民も自衛隊員も笑顔でしたが、町の大通りに戦車や装甲車が止まっており、国境のまち、稚内の一面を見ることもできました。

国境の先が見える町

日本最北端・宗谷岬に佇む筆者

 日本の最北端の地である稚内市の約43km先には宗谷海峡を挟んでロシア・サハリンが位置しています。晴れた日に宗谷岬に立てば、サハリン基地のレーダーサイトもはっきりと見ることができます。

 一方、稚内市はロシアとの民間交流の窓口、ゲートウェイでもありました。サハリン州3市を友好都市とし、市役所にはサハリン課があり、現地には事務所を置き駐在員も常駐させてもいました。1995年からはサハリン・コルサコフとの間に定期航路もありました。そして、多くのロシア人が、稚内に観光や買い物に来たり、私もよく宿泊していた稚内グランドホテルの温泉を利用したりしていたようです。

 また、数は少なかったですが、稚内発の日本人向けサハリンツアーや台湾から稚内へ、そして、サハリン経由シベリア鉄道に乗る団体ツアーも実施されていました。細々ですが、お互いの顔を見ながらの民間交流が行なわれていたのです。

途絶える民間交流

 しかし、定期航路は営業不振で2019年に休止。そして、ロシアのウクライナ侵攻。今では、サハリン駐在もサハリン課も廃止され、交流再開の目途など立ちようもありません。持続的であるべき民間交流が絶えていることは残念でなりません。

 昨年、あるセミナーで稚内市の幹部の方から興味深い話を聞きました。

 ロシアの侵攻前にサハリンを訪問したその幹部がロシアの公務員に「退職したら何をする?」と尋ねたそうです。その問いに半数の人が「ウクライナで老後を過ごしたい」「ウクライナへ行って仕事をしたい」と答えたと言うのです。そのロシアがウクライナを侵攻したことに同市の幹部は驚きを隠せないようでした。

 新型コロナウイルス感染症は収束しつつあります。しかし、戦争というイベントリスクの先行きは見えていません。パンデミックや暴挙の前に観光産業は無力ですが、民間交流を支える企業や関係者の役割の重さについて改めて考えさせられています。

(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=17

寄稿者 伊豆芳人(いず・よしひと) ボーダーツーリズム推進協議会会長

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