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吉原界隈で、腹ごしらえ~台東区・奥浅草土手通り~ニッポンを歩こう168

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江戸幕府は、町を氾濫から回避するために、大規模な土地改良を進めた。当時、江戸湾に流れていた利根川を現在の銚子付近に変えたことによって、氾濫原であった江戸の町は、経済都市に生まれ変わっていく。

1621年に隅田川沿いの待乳山を崩し、音無川を埋め立てる。そして、箕輪浄閑寺にかけて堤を築いた。これが日本堤の始まりと言われる。そして、明暦大火の後に日本橋から吉原遊郭をこの付近に移転させる。新吉原と呼ばれる幕府公認遊郭の誕生である。

新吉原は、日本堤沿いの「大門」のみが出入口。周囲には、お歯黒堀という掘割が造られ、遊女たちが逃亡しないように作られた。また、客たちは、堤の土手沿いの運河を利用して隅田川から遊郭に通った。そのため、日本堤は「吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれた。

この名残が、今では土手通りと称する道路だ。三ノ輪で明治通りから分かれ、待乳山聖天の脇で隅田川まで続く。また、途中、大門辺りから吉原に向かうには緩いカーブになっている。これは、吉原に通う客をほかの人に見せない工夫とも言われている。そして、その場所には、吉原帰りの人々が名残を惜しむ「見返り柳」が植えられている。

人間の欲望は、やはり「食」だ

さて、客たちは、吉原に向かう前後に精をつけた。そのため、桜肉を供する店や天麩羅を食した店が建ち並ぶ。桜肉「中江」、天麩羅「伊勢屋」は、今に残る老舗の店だ。残念ながら、日本堤は関東大震災の後、1927年に取り壊された。しかし、今でも老舗が溶け込む風景は、往時の風情を残している。

2025年、NHK大河ドラマは蔦谷重三郎を主人公にしている。その結果、この付近は観光客が増えていると聞く。奥浅草は、台東区観光のラストピースだ。更なる飛躍に期待感大である。

(2024.09.24.撮影)

(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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