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地域創生撮影活動 第五章 『写真は語る』名勝臥龍山荘庭園の軌跡

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庭園に込めた粋亭の美学

愛媛県は、東、中、南予と3エリアに分かれている。そして、大洲市はその南予地域の北部に位置している。大洲盆地の中央を蛇行しながら伊予灘へと向かう肱川と、その河畔に建つ大洲城を中心に形成された城下町だ。

かつて、幕末の維新成就の舞台裏で活躍したといわれる藩士の児玉下記(げき)や窪田省吾、そして、武田敬隆(ゆきたか)などの優秀な人材を輩出したことでも知られる。特に武田敬隆の弟で成章(しげあや)は、日本城郭史上初となる西洋式城郭の五稜郭(ごりょうかく:北海道函館市)を設計した偉人である。

その大洲藩を治めていた加藤家の下屋敷があった付近は「臥龍淵」と言われ、当時も肱川水系随一の景勝地と謳われていた。

(冒頭の写真は、品格の高さを誇る「壱是の間」)

水面鏡(庭師と大工の知恵と技の結晶)
水面鏡(庭師と大工の知恵と技の結晶)

十二支の石燈籠

1897年に庭園整備を始め、1900年年9月に日本の名建築と謳われている不老庵の建築となる。この年の中秋の名月は9月9日であった。そのため、既にこの時、全ての中心である十二支の石燈籠を起点にして不老庵を配置し、「月光反射」を実際に確認して作業を進めたことが想像できる。

現代人にはなじみの薄くなりつつある五行十干と干支。しかし、この石燈籠の役割を理解するためには、五行十干と干支をまず理解しておく必要がある。

知人の一級建築設計士に聞くと、日本建築には「木割り=方程式のようなもの」というのが古くから受け継がれている。例えば、柱のサイズが決まれば関連する材のサイズは全て決まる。これらが大工さんの技の基本であるとのことだ。

庭園南側から北方向を観る
庭園南側から北方向を観る

巧の思いを撮影に

十二支の石燈籠は、中露地のほぼ中心付近に位置している。また、すぐそばに陣取る庭石は首を上げた蛇のようにも見える。よく観ると、その庭石の下には大洲藩の蛇の目の御紋の鬼瓦が据えてあるのだ。

先に述べた日本建築にとって重要な基本的な決まり事を少しずつ紐解き、撮影しながら現場と照らし合わせていく。すると、当時この庭園整備に携わった庭師植德や大工の棟梁を務めた中野虎雄を始め、草木國太郎などの名大工の思いに触れることができる。

首をもたげた蛇にも見える庭石
首をもたげた蛇にも見える庭石

撮影を本格的に始めた2008年頃。イベントのグランプリを獲得した「えひめ町並み博2004」からちょうど4年が経った。その効果による地域情報発信への期待感から、地域情報素材の発掘と撮影を進めて行く必要があったからだ。

当時、既に完全木造復元されていた大洲城と併せて「地域の目玉商品」として、先ずは在京大手旅行会社への売り込みを進めていった。そして、そのためにも品格の高い臥龍山荘のイメージを崩さないだけの写真を撮影することが求められた。

石燈籠から南側を観る
石燈籠から南側を観る

踏み荒らされる日本の心

まだまだ不明なことはたくさんある。

古来の日本文化の原点のようなものを探っていかなければ、私に「お抹茶の世界」は全く見えない。しかし、かつて城甲家が所有し大切に守り続けていた「日本の心」がこの臥龍山荘には根付いているように感じる。

2025年は入館者も7万人と聞き及んでいる。その多くは外国からの観光客だ。そもそも文化の異なる彼等に日本の常識を理解していただくことは至難の業。それだけに、この素晴らしい庭園が踏み荒らされていくことを放っておいていいのかと思うのだ。

人の気配を感じる臥龍院
人の気配を感じる臥龍院

大切なことは何か

観光客が増えさえすれば良いのか。

それは、大切な地域の財産を守り維持して、次代へと送り届ける決意が伴わなければ劣化してしまう。そして、崩れた美学を取り戻すことができなくなる可能性を秘めている。

これまで20年近くもファインダーを覗き続けてきた。それ故、案内人を育成し、旅行商品化するための基盤を作り上げた者として、警笛を鳴らさずにはいられない。

(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=14

寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう) 街づくり写真家 日本風景写真家協会会員

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