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地域創生撮影活動 肱川物語 序章『ひじかわの詩』①

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冒頭の写真は、「肱川に宿る生命の源」

■写真を好きになったきっかけ

結婚した時にカメラを買った。当時、仕事でお世話になっていた写真館の社長のオススメでもあった「Canon AE-1」である。以後、家族イベントの時、記念日や誕生日の時、子どもたちの成長記録の際には必要不可欠な存在だった。

これが次第に趣味へ、そして仕事へと展開していくのだが、そのそもそものきっかけは、35年前に脱サラ独立開業したことだった。

高校時代に、オヤジが持っていたカメラを借りて、修学旅行に持って行き東京タワーを撮影して戻った。早速現像してネガを持って帰ってくれたオヤジが「まあまあうまいこと撮れとるぞ」と褒めてくれたことですっかり気を良くしてしまった。

この川に宿る魂

■一生の不覚がもたらしたこと

1967(昭和42)年7月16日、中学1年生の私。軟式庭球部の補欠だった私は、同じ同級生と5人で夏の大会に出場する上級生の試合を応援に行った。どこで誰がどう話をして決めたのかは覚えていないが、帰りに大洲城の下で泳いで帰ろうということになっていた。13時過ぎだったと思う。他にも泳いでいた生徒たちはいたが、私たち5人で水に入り、私を含む3人は肱川を何度か横断し対岸で休んでいた。残り2人はそれが叶わず城下にいたがどうしても肱川を渡りたいというので、私が一緒に渡ることにしたのだ。

小学校の頃から肱川で夏に開催される水泳学校に通い、冬以外は毎日のように自宅前の小川に入って遊んでいた私は、どちらかと言えば泳ぎは達者な方だった。が、しかし、ほぼ渡りきった頃に背後で「助けてくれ~」というつんざくような叫び声を聞いたときに「うそ?!」・・・時すでに遅しだった。

生きて戻って来れなかった2人には大変申し訳なく後悔した。それは未だにそうだ。両親と一緒にお葬式に行ったがお線香も上げさせていただけず悲しい思いは募るばかりであった。以来、今年の夏で60年が経ったがあの時の叫び声は、私の脳裏に鮮明に焼き付いたまま消えようとはしない。彼等の魂はあの城下に今も眠り続けているのだ。肱川の撮影をするときには、必ず彼等2人のことを思い浮かべながらシャッターを切っている。

■写真に思いを込める

独立開業してから地元の写真俱楽部に入れていただき、諸先輩方に教えを請うて、次第に撮影の面白さが分かり始めていた1998年9月のこと。大洲市が官民協働で進めて行く「中心市街地活性化」の取り組みの幹事会メンバーとして加わることになった。

色々課題はあったが、全国的にほぼ無名で観光地と言えるような状況ではなかった当時の大洲市。唯一のネタが「伊予の小京都」と言われ「おはなはんのロケ地」だったことくらいだった。隣町の内子町は飛ぶ鳥を落とす勢いで名を馳せ、多くの観光バスがたくさんの観光客を乗せて来訪し町は賑わっていたのだ。

春を迎える大洲盆地の朝

2002年、大洲市TMOの立ち上げと大洲まちの駅「あさもや」の開設により、いよいよ観光集客基盤生成に動き出した大洲市だった。しかし、現場をお預かりしたものの打つ手がなかったことから、この町の写真を撮り、当時インターネットが普及し始めた頃でもあったし、これを情報素材化して発信していく作業を始めた。そのための撮影の中心は自ずから肱川になった。亡き2人の友達の魂が眠るこの川は、大洲盆地という特殊な地形がもたらす影響もあって、必ずやこの町の将来を左右すると確信したことも撮影の根拠である。

■日々の活動と積み重ね

以来、毎日肱川と城下や周辺を撮影し、毎日ネット上へアップしていく作業を開始。2019年3月末の退任後もフリーの写真家としてこの作業は今も続けている。この間アップした写真の数は合計約3万点。その1点1点に思いを込めた。それが『ひじかわの詩』なのだ。あの2人に私の一生を懸けて届け続けたい私からのメッセージである

そして、活動開始から5年後の2008年に大きな転機を迎えることになった。

初夏の到来を告げる夏雲海

次月へ。

(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=14

寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう) 街づくり写真家 日本風景写真家協会会員

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