浅草寺の由緒
東京の下町を代表する観光地である浅草。その中心である浅草寺の文献の初見は、鎌倉時代の「吾妻鏡」です。源頼朝とも深い関係がある東国の古社です。
都内最古の寺と言われ、正式名称は、金龍山浅草寺(きんりゅうざん)と号します。そして、聖観世音菩薩を本尊とするために「浅草観音」とも呼ばれています。かつては天台宗の寺院でした。しかし、独立して、聖観音宗の本山となりました。今では、日々数多くの参拝客でにぎわっています。
徳川家康が江戸に入府(1590年)すると浅草寺を祈願所として定めました。そして、家光の時代には、焼失した五重塔や本堂も再建されました。そう、徳川家によって篤く保護されました。また、1685年には近隣住民が境内清掃の見返りに参道で商売ができるようにと要求。現在の「仲見世」の前身である商店街の始まりです。その後、境内で大道芸や芝居小屋も行なわれ、庶民の娯楽の場として発展していきました。
明治期になると、周辺一帯が公園地化(浅草公園)されます。また、1885年には仲見世が近代的なレンガ造りの建物となりました。関東大震災では被害が少なかったものの、東京大空襲ではそのほとんどが焼失。その結果、戦後は一時衰退の一途を辿りました。しかし、地元商店街などの努力により、観光地として回復していきました。
新たな観光コンテンツの賛否は・・・
その浅草寺・雷門の正面に2012年、新たな観光コンテンツが出現します。
隈研吾さんが設計した「浅草文化観光センター」です。かつて、ここには銀行がありました。閉鎖後、1985年に台東区が跡地を購入して観光案内所としました。しかし、建物の老朽化によって、建替えが必要となりました。この地域には高い建物がなかったため、その是非が議論されました。そのため、平屋家屋が重なったようにビルを設計。また、杉の不燃材が使い木の良さを見せる造りも、浅草のイメージに合致することに成功したと言えます。
そして、最上階8階には浅草寺を俯瞰する展望テラスが設置されています。無料で登ることができる施設は、国内外の観光客の人気の的となりました。
特に海外からのお客さまは、必ずと言っていいほど、このテラスを訪れていると感じます。雷門から仲見世、浅草寺を見渡せる姿は、怖れ多いと思いつつも、素晴らしい景観です。また、逆方向に目を移すと、スカイツリーも見ることもできるからでしょうか。
もっと回遊できる観光地として・・・
さて、浅草寺周辺は、何度訪れても飽きることのないモノ・コトが充実しています。
電気ブランの「神谷バー」や東武鉄道が発着する「松屋デパート」、隅田川に架かる鉄道橋の横を歩いて渡る「すみだリバーウォーク」など。新旧の観光施設が共存して誘客に努めています。また、桜や三社祭、サンバカーニバルなどの年中行事も魅力的なイベントとなっています。
東京スカイツリーが開業した当初は、墨田区と台東区の観光が分断されがちでした。しかし、リバーウォークの完成によって、観光の回遊性を高めることができました。
「点から線、そして、面へ」と広がりを見せること。それが、地域への滞在時間を長くして、経済効果も向上することとなります。また、隅田川を舟旅という手段の活用によって、城東地区の観光が大きな面として成立します。
東京を代表する先進観光地・浅草、将来を見据えた戦略・戦術をリードし続けて欲しいものです。
寄稿者 観光情報総合研究所 夢雨/代表
(これまでの寄稿は、こちらから)