大洲藩六万石。加藤家が十三代に渡って治めた四国西端の城下町大洲は、1957年に肱川流域の町村と合併をして大洲市となった。これ以降人口は増減を繰り返しながら平成の大合併前には39,000人少々のところで現状維持を保っている状況だった。
迎えた2005年1月、肱川上流の肱川町、河辺村、それに河口の長浜町と合併して「新大洲市」は誕生した。人口は54,000人少々。あれから二十年近くの刻を経て、現在は旧大洲市の39,000人とほぼ同じレベルまで減少した。
深刻な人口減少の影響が徐々に現実のものとして現れ始めた昨今、果たして地域として生き残る手立てはあるのか。
大洲城
大洲城は2004年9月1日に「完全木造で復元」された。本年で20周年を迎える。梯郭式郭を以て複合連結式四層四階のこの城は、大洲市民のシンボル的存在でもあり観光素材としても中心的存在であることに違いはない。
数年前から「城泊」が話題となりメディアによって全国配信されたこともあり、今では絶大な人気を誇る。ただ一方で、現存十二城の丸亀城やその他の城でも「城泊」を正式にメニュー化する動きが現れたことから、大洲城の取組も次の手を打たなければ何らない時期に来ている。ならば、城があることの魅力とはいったい何なのか、改めて考えてみる必要もあるだろう。
大洲城は、肱川河畔南側に位置する。かつては「地蔵ヶ嶽城」といわれた時代があったようだが、戦国時代に長宗我部の手のものに攻め落とされ、いったんその歴史は幕を閉じている。
時代は動いて江戸初め。藤堂高虎や脇坂安治などによって建設された城が現在復元される前の大洲城。城郭北側を流れる肱川を堀に見立て、梯郭式の郭の上に建つ四層四階の天守閣はとても美しく画になるのだ。
肱川のめぐみ
河が流れる街の風景。全国の河川の中でも支流の数が470本を超えるのは5番目になるという約103kmの肱川(ひじかわ)は、大洲城から本流の源流まで直線にしても10km前後。河川の長さから考えるとこの川がいかに曲がりくねって伊予灘へと流れ出ているかが見えてくる。
すり鉢状の典型的盆地と北西に向けて伊予灘へと流れ出る肱川は、秋冬には北西から吹き込む冷気を盆地に吸い込む。そして、明け方には盆地に溜まった冷気が放射霧を巻き起こし、途中で川面から発生する蒸気霧を吸い上げながら伊予灘へと排出する。これが肱川あらしだ。
一方で、この霧は雲海という絶景をこの盆地に与えてくれた。夏の霧は秋冬のそれとは違って随分やわらかくて湿っぽい。幾たびかの大氾濫を引き起こしてきた肱川もなくてはならない存在なのだ。
城と河と鉄道と・・・
城があり河が流れる城下町、気動車が音をたてて鉄橋を渡る日常。もっと視点を変えて観ていけば、私たちの気づいていない魅力に出会えるのではないか。人口減少が点す危険信号を観ながら、すでに変わってしまった旅のスタイル。増え続けるインバウンドとのバランスを保ちながら、この先の地域の有り様をしっかり考えることは最重要課題ではないか。写真がそのきっかけになれば写真家冥利に尽きるというものであり地域創生撮影とはそういうことかもしれない。
(つづく)
(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=14
寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう) 街づくり写真家 日本風景写真家協会会員