日本を代表する山である富士山は、江戸時代中期に富士信仰が盛んとなる。関東地方、特に江戸を中心に数多くの富士講が生まれ、それに伴い、各地に富士塚が作られた。それらは、富士山に模して造営された人工の山や塚である。江戸時代には一般的に「お富士さん」などと呼ばれた。現代では「ミニ富士」などとも呼ばれている。また、その造営方法は、通常の人造の山(築山)と同様である。しかし、既に存在する丘や古墳を転用して富士に見立てたものや富士山の溶岩を積み上げたものもある。
富士講とは、7月1日の富士山「山開きの日」に富士塚に登山する習慣。そして、富士塚の上から富士山を望むことができるようにされてきた。しかし、近年、ビル高層化の影響で富士山を直接見ることができなくなっている。また、劣化防止という理由で、立入禁止とされていることが多い。これらは、山開きに合わせて6月末から7月初めや催事などの際に登ることができるものもある。このように、富士信仰の文化が現在も脈々と受け継がれている。
最古の富士塚は、いずこ・・・
東京都内には、50か所ほどの富士塚が存在する。しかし、既に消滅したものや痕跡を残すのみのものも少なくない。その中でも、1780年に高田水稲荷の境内に建てられたものが最古とされる。ただ、早稲田大学キャンパスの拡張によって壊され、移築されてしまった。そのため、現存する最古の富士塚は、千駄ヶ谷の鳩森八幡神社内の千駄ヶ谷富士となっている。都の有形民俗文化財にも指定されている。
現在は、「江戸七富士」と言われる富士塚が有名であるが、それ以外にも、山開きには、数多くの屋台が出て、にぎわいをみせるものが各地に存在する。
江戸七富士とは、
品川富士(品川神社境内)・千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)・下谷坂本富士(小野照崎神社境内)・江古田富士(茅原浅間神社境内)・十条富士(十条冨士神社境内)・音羽富士(護国寺境内)・高松富士(富士浅間神社境内)を指す。
では、今回は、大きいとか有名とかではなく、特徴的な富士塚を紹介していこうと思う。
駒込富士(文京区本駒込・駒込富士神社)
天正元(1573)年、本郷に築かれた冨士大権現を寛永5(1628)年頃、現在の地に遷座したもの。駒込富士神社は、日光御成道沿いにあり、本殿は大きな富士塚の頂きに鎮座している。また、斜面にはわざわざ富士山から運んだ溶岩が配されている。
現在、駒込富士神社は、近隣の天祖神社が宮司を兼ねている。山開きの前日の6月晦日には、富士神社は山開き、天祖神社は茅の輪くぐりと夏詣でが行われる。地元密着の古社は、朝な夕なに参拝客が絶えない。
(見出しの写真は、山開きの縁日の様子である)
なお、駒込天祖神社については、第8章で詳しく紹介している。
https://tms-media.jp/posts/22264
小塚原富士(荒川区南千住・素盞雄神社)
元治元(1864)年、南千住の素盞雄神社の起源となった旧郷社「飛鳥社小塚原天王宮」の「神影面瑞光荊石」のある小高い塚を、のちに富士塚を築き浅間神社をお祀りしたもの。その後、一帯を小塚原と呼ぶようになり、江戸時代には処刑場としても有名となった。
この辺りは、江戸城の鬼門に当たる地域、江戸の町は風水の考え方で作られた都市。そして、北の小塚原と南の鈴ヶ森に処刑場が作られた。双方とも大きな街道沿いにあり、庶民への見せしめとも言われる。北に歩みを進めるとすぐそばには、大川と呼ばれた隅田川の流れにぶつかる。守りの要としても重要な場所であったことがうかがわれる。
なお、素盞雄神社については、第16章で詳しく紹介している。
https://tms-media.jp/posts/26510
品川富士(品川区北品川・品川神社)
東京十社のひとつ品川神社は、文治3(1187)年、源頼朝創建という古社。そして、その境内で東海道を見下ろすようにそびえるのが、東京随一の高さを誇る品川富士。比高は15mという巨大なもの。
現在は、眼下に国道15号(第一京浜)が走る。富士塚から望む景色は、江戸湾と富士山の双方を愛でることができる絶好の場所であっただろう。かつては、東海道が海沿いを通っていた場所であるから、人の出も多かったと思われる。急な石段の途中にある富士塚、まさしく、天下の剣といえる風景である。
白山富士(文京区白山・白山神社)
天歴年間(950年頃)に加賀白山神社を勧請し、幾度となく遷座を繰り返した。そして、五代将軍綱吉公と生母桂昌院の信仰を受け、現在の地、小石川の鎮守となる。今では、こちらも東京十社のひとつに数えられる。近年6月には3000株のあじさいが群れ咲き、あじさい神社として都心の新名所でもある。境内の東側、山全体にあじさいの花が咲き誇る小高い富士塚があり、あじさい祭りの期間中のみ、登ることができる。
将軍家の庇護によって、山の手の高台への移転をした。この辺りは、閑静な住宅街である。しかし、下町の風情も同居している不思議な場所だ。また、近隣には古くからの私立の学校も多く、通学時間には制服を着た子供たちが闊歩する。そして、あじさいの時期は、テレビ中継が行われたりするために、より多くの観光客が訪れる。昨今のSNS映えを狙って、仮装して訪れる人を見かけることもある。ほのぼのとする瞬間だ。
谷中富士(台東区谷中・ヒマラヤ杉そばの祠)
この「東京再発見」シリーズ第1章で紹介した谷中のヒマラヤ杉の裏手に、ひっそりと祀られているのが谷中富士。この富士塚は、地元のギャラリー「千寿庵」の方が、昭和初期に長屋を修繕する際に敷地内に富士塚を造営。北口本宮富士浅間大社宮司より名前をいただいたことに始まる。
高さ1m未満の小さな富士山だ。
谷根千散歩をする人々に有名となったヒマラヤ杉とみかどパンの裏手にあるために、その存在を知らずして、通り過ぎる観光客も多い。他の富士塚とは比べものにならないほどの大きさなので、なおさらである。また、拝む場所からお社の方角に富士山があるように造られているところも富士山に対する敬いを感じる。
しかし、これまで紹介した富士塚と違い、民間人が私有地に建てた塚である。大きな神社に守られているわけでもない。その意味からも富士山信仰の裾野が広いことの証でもある。
なお、谷中のヒマラヤ杉については、第1章で詳しく紹介している。
https://tms-media.jp/posts/20647
日本一の山
このように由緒ある大きな神社から民間で造られた小さな祠まで、日本人、特に東国人の富士山信仰の深さを物語るものが、富士塚と言えよう。飛行機から見ても、新幹線から見ても、富士山が綺麗に見えると、幸せな気持ちになれる。
富士山は、「信仰の対象と芸術の源泉」として、2013年に世界文化遺産に登録された。富士講に代表される信仰と浮世絵を始めとするさまざまな芸術を育んできた。それゆえ、富士山は人と自然の共生を象徴する未来に受け継ぐべきものだ。
江戸時代は、民衆が「旅」に出る機会が増えた時代とも言われている。そこには、伊勢神宮に参拝する「伊勢講」など、信仰につながるものも多かったと言える。現代のような高層ビルが林立する時代と違い、江戸に住む人々にとって、富士山は、日常生活の一部であったかもしれない。
また、東京は、小高い丘と谷の連続地形のため、富士山がよく見えたのであろう。そう考えると、東国で富士講が根付いたことにも納得がいく。やはり、富士山は、日本一の山だ。
一日の終わり、富士の裾野に陽が落ちていく。新しい明日を迎えるためには、とても素敵な景色なのである。
(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8
取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長