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東京再発見 第43章 風水が江戸の町を守る~上野谷中の寺町あたり~

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 東京を代表する城東地区の観光地・上野。そこから細長く北に延びているのが上野台地である。そして、この周辺は、隣の本郷台地とのはざまにあるために「谷中」と呼ばれる町だ。崖の上と下に60か所ほどの寺院が集中している。第二次世界大戦や関東大震災の時にも大きな被害を受けなかったために、今でも古き町並みが残っている。

都市計画の再構築が、寺町を作った

 慶安年間(1650年頃)、江戸の地に全国から多くの人口が流入する。しかし、1657年の明暦の大火によって、江戸の町は、壊滅状態となる。そのため、江戸の中心部再開発が進められることとなる。一方、この地は、江戸城から見て鬼門(北東)の方向にある。その結果、都市江戸を防衛するべく、徳川家の菩提寺として「寛永寺」が配された。上野・谷中の地を江戸の北の護りとする必要があったのだ。最盛期には、98もの寺院が移転してきている。

東叡山寛永寺・根本中堂、上野のお山の中心だ!
東叡山寛永寺・根本中堂、上野のお山の中心だ!

 寛永寺は、京都の延暦寺に擬えた江戸鎮護の性格をもつ寺だ。平安京の北東に、琵琶湖に近接し比叡山延暦寺が配されたの真似て、不忍池のそば、上野の山に建てられた。その山号も東の比叡山ということで東叡山とされた。そして、延暦寺が延暦年間にできたので、寛永年間にできたので寛永寺とされた。また、琵琶湖の竹生島に倣い、不忍池に弁財天を祀った。このように、寛永寺は徳川家の菩提寺として、芝の増上寺とともに発展する。

 ちなみに、この増上寺と江戸城そして寛永寺は、南西から北東の方向に一直線に並んでいる。

敵の侵入を防ぐ、数多くの工夫

臨江寺、崖下の古刹
臨江寺、崖下の古刹
(近くには曲がりくねった道が・・・)

 さて、新たな町づくりは、台地上の谷地という地形を活用して形成されていった。曲がりくねった狭い道を進むと階段や行き止まりとなる。その理由は、敵の進入スピードを削ぐためであった。

 一方、時を経て、安寧な時代になると、境内地は、次第に町人に貸与されるようになる。そして、方々で町屋が開かれていった。また、墓参を兼ねた行楽も盛んとなっていく。その結果、寿司屋や和菓子屋、工芸職人等が集まる町に変化していく。

 このように、谷中は、寺町と下町とが折り混ざり独特の風情を醸しだしている。

 しかし、最盛期に98もの移転してきた寺院は、幕末の上野戦争で多くの寺院が焼失する。そのため、残念なことに、堂宇は主に明治以降に再建されたものである。

乗り遅れた都市開発

 明治期以降、近隣に商工業地域は広がってくると、従事する移住者が増える。1916年に不忍通りに路面電車が走り出す。しかし、一歩中に入った町は、古い町のままであった。そして、都電は、1967年に廃止される。これに代り、1969年に地下鉄千代田線が開通する。その結果、人流は変わり、近隣商店街や谷中銀座の客足が急激に減少した。

 高度成長期、狭い道路や昔ながらの町並みや木造家屋が密集しているため、再開発の波からも遠ざけられた。また、地域住民も高齢化が進み、外からの観光客によるオーバーツーリズムを嫌う傾向もある。そのため、谷中から引っ越しをしていく方も少なくない。

天王寺の大仏
日蓮宗の古刹が、天台宗に改宗した、天王寺仏

再開発の波は、その姿を変えつつある

 そのような状況を受け、地元台東区は、再開発への重い腰を上げるようになった。昨年あたりから新築家屋が増えてきた。有名は夕やけだんだんや谷中銀座の真ん中に更地ができていることは、寂しい限りだ。

 谷中が有名になったのは、1984年に地域情報雑誌である『谷根千』の刊行に始まる。このコンセプトは、「ごく普通の地域の歴史や文化などの話題や生活の直接の情報を掲載して、地域おこし、地域を新しい価値観で見直すこと」を提唱したものである。それ故、発刊当時は、歴史や文化に重きが置かれていた。

 しかし、世の中は、ファストフード文化が主流となり、食べ歩きなどが好まれるようになる。それは、谷根千においても同様であった。このことが、地域住民の谷根千離れを引き起こしたのだ。

長明寺の枝垂桜、谷中一の景観
長明寺の枝垂桜、谷中一の景観・・・すぐ隣は、夕やけだんだんの再開発が始まっている

本来の町歩きを復活させるためには

養伝寺の土塀に、ひっそりと
養伝寺の土塀に、ひっそりと

 さて、地域おこしの本来の姿は、歴史や文化に触れることだと考える。その意味からも、谷中にある寺院に焦点を当ててみるのが、今回の目的である。不思議なことに、谷中にある寺院の半数以上が、日蓮宗の寺院である。拝観料を取って参拝させる有名寺院とは違うために、観光客が参拝することは皆無である。そして、誰しもその宗派が何かを知ろうともしない。

 徳川家康は、三河時代から日蓮宗と深い関係があったと言われている。のちの養珠院(側室、お万の方)は日蓮宗に帰依していた。そして、家康は、谷中の地に瑞輪寺も創建する。その境内は、今でもその広さを誇っている。このように、家康は、日蓮宗を信頼していたと考えられる。そのため、江戸の北の防御に日蓮宗寺院を多数移転させたのである。

 しかし、この地域の中心たる寺院は、天台宗の寛永寺だ。そのため、天台宗の寺院も多数存在する。現存する寺院巡りをするだけでも、歴史の新たな側面を垣間見ることができる。

目線を変えて、ゆっくりと・・・

 これだけ多くの歴史や文化を誇る寺院がある谷中、食べ歩きや花見だけではなく、ゆっくりと見聞を広げることにシフトチェンジする必要を感じる。ここに重きを置けば、町歩きのお手本と言われた「谷根千」は復活することであろう。

 新たな歴史文化を見出すのは、このような仮説から始まる。こういった目線で町歩きができる、そのような町「谷中」、まだまだ知られていない善きモノ・コトを、今度の休日は巡ってみては、いかがだろうか。

谷中マップ、お寺のマークがたくさん!
谷中マップ、お寺のマークがたくさん!(Google Mapより転載)

素敵な景観を少しばかり・・・

南泉寺、数少ない禅寺、八重桜が満開に
南泉寺、数少ない禅寺、八重桜が満開に
養福寺、ソメイヨシノと八重桜が競演する
養福寺、ソメイヨシノと八重桜が競演する

(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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