おかず横丁というユニークな名前、正式名称を「鳥越本通商盛会」という商店街だ。その場所は、鳥越神社の裏手を西に進んだところ、延長230mである。戦前は、東西に分かれた2つの商店街(東側が鳥盛会、西側を商正会)であった。しかし、1949年、一つの組織となり、現在の鳥越本通商盛会が生まれた。
地元の方々が、自ら創る商店街
かつて、このエリアは町工場がたくさんあった。そのため、家族総動員で朝から晩まで働いているという家庭がほとんどであった。また、毎日忙しく、食事の用意もままならない従業員がたくさん存在した。
その結果、ごはんのおかずを提供するお店が集まり、商店街を形成していった。当初は、日用食料品を取り扱う商店が集まり、60軒程度が商いを行なっていた。
そして、一時期は、東海林さだお氏のエッセイでも取り上げられたことがある。それほど活気にあふれた商店街だった。しかし、スーパーマーケットの進出や商店街の業態の変化によって、徐々に低迷していった。そのため、閉店するお店も増えて、シャッター街となってしまった。このように、個人経営の商店が集まり、商店街を形成している事例は、昭和の頃の一つの仕組みであったのだ。
新しい人々も流入して・・・
昨今、新規にお店を出す若い人も増えてきた。その結果、昔ながらの味を守り続けるお店とともに、新旧が混在融合して、新たな活気を生み出している。古いお米屋さんや味噌屋、漬物を売る店や総菜屋さんが今でも営業を続けている。また、東京下町によく見かける銅板葺の壁を有する民家なども懐かしさを感じる。
子供たちが、学校帰りに商店街で遊び、その合間におやつを頬張る。そして、お母さんからの伝言で、総菜を買って家路を急ぐ。まさしく、今で言うファストフードとテイクアウトの元祖を地で行く町である。
一方、最近はテレビドラマや町歩き番組などでも、おかず横丁は、数多く紹介されている。そのため、遠方からもお客様が買い物にやってくる姿を見受ける。しかし、主たるお客様は、今も変わらず地元住民だ。
下町には、このような商店街が、今でも少なくない。その理由は、商店街が、地域の学校などとの結節点となっているからだ。子供たちを見守り、時には、食事を提供することもある。時は流れ、地元密着が薄れていく。しかし、この姿は、いつまでも消え去ることがなく、大切にしたいニッポンの姿である。
地元密着こそ、地域の未来を作り上げる基礎になるべき要素である。それがうまく循環することによって、地域の宝物も見い出されていくことだろう。
おかず横丁の朝の様子を・・・
(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8
取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長