現在の大洲城と町の様子
国内初の「城泊」として観光まちづりの分野で注目されている城下町大洲。今やインバウンド集客も半端なく、人口40,000人にも満たない町中は諸外国からの観光客でにぎわう。
四国には「現存天守十二城」と謳われている丸亀城(香川県)、伊予松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、高知城(高知県)と四つの名城がある。その中で、これらを押さえて2004年9月1日に完全木造復元された大洲城が観光まちづくりの軸となっている。
一泊百万円を優に超える宿泊費。お客様の希望によっては花火も打ち上がる。この原稿を書いている今夜(4月5日)も「ドドドンパパパ~ン」と花火が打ち上がっている。満開の桜がぶったまげて散るくらいの勢いだ。既に名物化しているこの音を聞けば、地域の方々は「今夜もお城はお泊まりじゃ」となるからたいしたものである。
大洲城とは
だが気になることもある。
それは、かつての時代に大洲城を居城として江戸時代を治めていた加藤家が、幕末から維新成就に向けて動いた「歴史的貢献」が語られることはなくなったということだ。2008年頃からこの歴史的役割などについて専門的に史実調査した。そして、当時大洲市として発表した私としては少し残念な思いがしている。いずれ改めて手持ちの資料を整理して発表し、時代へと遺していきたいとそう考えてはいるが。
一方で、「画的な素晴らしさ」についてはどうか。進化し続けるSNSを舞台として広がりを見せる地域情報発信。しかし、その舞台裏では激しい「地域間競争」になっていることも確かである。この点は、現在肱川流域を舞台として地域創生撮影活動を展開している写真家としての私の重要な社会的役割ではないかと理解する。
今回は、写真が語る大洲城の画的な素晴らしさをご覧いただきたい。

このシーンは、街づくりに関わり始めた20年ほど前のこと。大洲城を情報素材の軸として展開していくために私が撮影してインターネットを介して発表した。その写真がポスターとして伊予大洲駅に貼り出されるなどしたことから次第に拡がった。そして、現在人気の「伊予灘ものがたりと大洲城の旗振りシーン」を生み出すことにつながったという正に「写真の効果」の成功事例でもある。

写真が果たしてきた役割と効果
2014年7月上旬に初代伊予灘ものがたりが試走を開始したことをきっかけとして「汽車が音を立てて走る」というフレーズも生まれた。これは「鉄橋を汽車が音を立てて渡る城下町大洲」という表現に進化する。これらに併せる写真はどこで撮れるのかと探り始めたことから発見した撮影場所だ。
大洲盆地と肱川の巻き起こす自然のいとなみと薄ら浮かび上がるシルエットの大洲城を背景として突っ込んでくる列車を撮影したシーンはインパクト十分。桜のこの時期から冨士山のツツジ満開の時期などには、全国から撮り鉄さんたちが撮影に訪れている。

はじめてなのに懐かしい。
朝焼けに染まる町、
喧噪の世界からひとたび離れ、想う時を愉しむ。
このフレーズは、こうしたあさもやベールに包まれた状況を撮影した写真を観光ポスターのメインイメージとして素材採用されたことから、制作に携わったデザイナーが実際に町並を歩いて生み出したものだと聞いている。
写真が語る地域創生撮影
それは単なる商品素材撮影やしあわせ満載の記念写真などとは別物で、「撮り手」がいかに被写体やそれらが関係する地域や舞台などへの思いや願いを込めてシャッターを切っているかが問われる。それによって、予想もしない波及効果が生まれたりするし、それが地域の街づくりの動きや活動、地域創生へ向けてのきっかけになることもあるということだ。
ご紹介したメインポスターは、少し前にはなるが2021年第40回愛媛広告賞の印刷広告部門最優秀を獲得した作品だ。大洲盆地と肱川、そこで暮らす人々のいとなみ、音を立てて鉄橋を渡る汽車と大洲城、夏は鵜飼い、初秋の「いもたき」、晩秋から初冬にかけての「肱川あらし」などに臥龍山荘を加え、四半世紀におよぶ撮影が積み上げてきたのが現在の城下町大洲の隠し味になっていると確信している。
写真が語る地域創生撮影とは、正にこういうことなのかとこの頃実感している。これと似たようなことが、ここ3年ほど撮影を担当した佐田岬でもうごめきだしている。
それは、また別の機会にお話しさせていただきたい。

(つづく)
冒頭の写真は、2025年3月30日撮影、大洲城東正面の写真
(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=14
寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう) 街づくり写真家 日本風景写真家協会会員