江の島は、左右を分けるように相模湾に突き出している。湘南(しょうなん)と呼ばれる地元住民だけでなく、首都圏のマリンスポーツのメッカとして、憧れの町だ。神奈川県相模湾沿岸、相模川の河口を中心とする5市3町(平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、秦野市、伊勢原市、寒川町、大磯町、二宮町)を指す。
その由来は、中国湖南省の洞庭湖に注ぐ湘江の南側の景勝地を、その名前として付けたとする説が一般的だ。しかし、単に相模国の南「相南」の「相」に「さんずい」を加えたものとする説もある。
江の島、信仰の島はいつしか・・・

その湘南を代表する観光地が江の島である。その大きさは、周囲4km、標高60mほどの陸繋島だ。かつては、引き潮の時のみ洲鼻(すばな)で対岸とつながっていた。しかし、関東地震で島全体が隆起し、今では地続きとなっている。四囲を海蝕崖に囲まれ、海蝕洞「岩屋」が先端に存在する。そのため、古来宗教的な修行の場とされてきた。1182年に源頼朝の祈願し文覚が弁才天を勧請。代々の将軍や御家人が参拝したと言われている。
1902年、江之島電氣鐵道が鎌倉まで全通する。その結果、江の島と鎌倉を結ぶ観光ルートが確立。数多くの観光客が訪れるようになる。今や、島内には年間2,000万人の観光客が訪れる。夏場の海水浴が主流だった観光客数も江の島展望台「シーキャンドル」を中心としたイルミネーションによって、増加傾向にあり、人気の場所である。
いざ、鎌倉~堅牢な武家の都
さて、機上から後方に目を転じると、鎌倉の町から三浦半島が見える。
鎌倉は、1180年に源頼朝が移り住み武家政権を誕生させる。そして、京都から都を移した場所だ。東西、北の三方に山、南に海という地形は、天然の要害と例えられた。また、鎌倉七口と呼ばれる山の尾根筋を開削した切通しを必ず通らねばならず、守りに適した場所とされる。
しかし、1333年、海際から新田義貞軍が侵入、150年ほど続いた鎌倉幕府は滅亡する。引き潮によって、三日月のように広がる材木座海岸から由比ヶ浜の海岸線は、手前の稲村ケ崎からわずかな道ができる。

「剣を投げ入れると瞬く間に道ができた」という逸話が生まれるほど、鎌倉唯一の進入を許した路であった。
一方、歴史的な建造物などが豊富に存在する鎌倉は、昔から観光客を忌み嫌う傾向があった。堅牢な場所は、町中に交通渋滞を起こす。また、長期休暇の時期には、外からの観光客が多く、地元の足である江ノ電にも乗ることができないという事象も起きている。
まさしく、住民不在のオーバーツーリズムだ。そのため、観光に関しては後ろ向き、近隣市町村との連携にも消極的である。
戦時下の遺構を目の当たりにして

次に、江の島を過ぎると、謎のサークルが現れる。戦前、日本海軍が通信基地として活用していた場所だ。
ここは、戦後アメリカ軍に接収された「深谷通信所」。直径約1kmの円形の空き地が広がっている。2014年6月に返還された。しかし、中心部には「囲障区域」という基地時代の要の施設が残っている。また、周辺部も草野球場や不法な耕作場となっている。2015年まで約160mの鉄塔も存在していた。
一方、その先には、南北に伸びる飛行場が見えてくる。

日本国内には、約100か所の飛行場が存在する。一般供用されている場所は、観光客にとっても馴染みがある。その反面、それ以外は地域住民しかわからないものが少なくない。
この飛行場は「厚木(あつぎ)海軍飛行場」という。神奈川県綾瀬市と大和市にまたがるアメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用する軍事基地である。総面積は約506.9ha、全体の約78%が綾瀬市、残りが大和市だ。厚木の名を冠しているが、厚木市にはない。
そのため、名称についてのさまざまな都市伝説がつぶやかれている。
平和な未来につなげていくために
このように、戦時下の相模湾は海軍の要衝であった。大規模な関連施設が、戦後80年間も放置されてきた歴史を刻んでいる。観光は平和産業だ。過去を忘れ去ることなく、未来を構築していくことも重要だ。
湘南上空を過ぎると、飛行機は箱根の山から富士山を俯瞰する。ある時は戦場と化し、また、ある時は産業の中心として、日本の国を牽引してきた湘南。これからもトップリーダーたる姿を見せて欲しい。
寄稿者 観光情報総合研究所 夢雨/代表
(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=181