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平成芭蕉の「令和の旅指南」㉗ 造林発祥の地“吉野”の桜と森の暮らし

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森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ ~美林連なる造林発祥の地“吉野”~

西行が歌に詠んだ桜の名所「吉野」と金峯山寺

吉野と言えば日本屈指の桜の名所として知られていますが、吉野山には約200種3万本の桜が密集しており、「下千本、中千本、上千本、奥千本」とそれぞれ標高によって開花時期がずれて順に開花します。この吉野山に咲く桜はシロヤマザクラが中心で、ソメイヨシノに比べて寿命が長く、大木になり、赤茶色の若葉と白色の花が混ざり合い、遠目から見ると鮮やかなピンク色に見えます。

一般の物見遊山の旅であれば、西行の歌を鑑賞しながら吉野山の花見だけでも十分ですが、日本遺産「森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ~美林連なる造林発祥の地“吉野”~」のストーリーを味わうには、金峯山寺など、山に生きた人々の信仰と森の資源を活かした生活文化などに触れ、造林発祥の地である吉野地域で、天然の森から深緑の絨毯の如き日本一の人工の森となった経緯を知る必要があります。

そこで吉野の歴史を調べると、吉野山にある金峯山寺は、7世紀に役小角(えんのおづぬ)が吉野・大峯山中で修行中、金剛蔵王権現を感得して開創した修験道の総本山で、桜の木はどれもその御本尊である蔵王権現のために植樹されたものです。すなわち吉野の桜は、蔵王権現のご神木となり、平安中期以降、参詣者らによって寄進され続けてきたのです。

修験道の総本山「金峯山寺」
修験道の総本山「金峯山寺」

天然の森から植林による人口の森へ

しかし戦国期に至って、この吉野地域の森と暮らしに大きな変化が訪れます。近畿各地で城郭や寺社の建築が増え、その用材として吉野の森林資源が注目されるようになり、これらの森林資源を効率的に運び出すために、蛇行する河川の岸壁を開削することで河川の流路改修が進められました。

林業にとって最も重要な作業は、倒した大木を人里まで運ぶことですが、激しい蛇行を繰り返す吉野川上流域では、岩場を開削した跡が随所に残っています。先人はノミとゲンノウだけで岩を削って水路を開削、川幅を広げ、大きな筏を組んで大量に木材を流せるようにし、このことにより吉野の森林資源の開発が加速したのです。

その結果、吉野の天然林は次々と伐採され、筏に組まれて運び出され、伐採可能な天然林が徐々に減少しましたが、天然林が伐採されたあとには、建築材としてより価値の高い杉や桧が植えられるようになりました。

吉野杉を運んだ吉野川
吉野杉を運んだ吉野川

森に生きた人々のこころと土倉庄三郎の造林法

しかし、吉野の人々は古代より山々を神仏と仰ぎ、その頂は神仏の頭、稜線伝いの道は神仏を巡る修行の道として、その周辺には植林をせずに自然の森を残し、神仏と仰ぐ森や山、そこから流れ出る水などの依り代として祠を設けて祀りました。そのため山地の各地には、古くからこの地で生育した見事な天然林と、吉野林業により生育した人工美林が共存しています。そこで、紅葉の季節に訪れると山頂と峯だけが紅葉し、それ以外は深い緑という美しいコントラストに感動を覚えます。

吉野は全国に知られる多雨地帯で、海抜300m~800mという位置にあり、1年の平均気温は14℃で風は弱く、強風にさらされず、森林の土壌は保水性と透水性が良く、杉や桧の生育に適したところでした。

そこで初めて植林が行われたのは、吉野川上流の川上村で、日本最古の人工林の一つとされる川上村の「下多古村有林」では、樹齢約250〜400年の杉・桧が育てられています。一方、全長136kmの吉野川・紀の川源流となる川上村三之公(さんのこう)地区には、500年以上も前から手つかずの森が残されています。豊かな天然林が広がる川上村の人々は、この遺された自然と先人の意思をしっかりと受け継ぎ、未来へと手渡すため、この森の約740haを買い取り、「吉野川源流‐水源地の森」として守っているのです。

一般的な植林法は、1ha当たり3千本から4千本の植え付けが普通でしたが、吉野地域では1ha当たり1万本の苗を植え付ける「超密植」と「多間伐」と呼ばれる、成長が悪い木を除伐しながら、木の生長に合わせて間伐を何度も繰り返す作業が行われました。この木の高さと強さをあわせ持つ良質な杉材を作り出す造林法は、吉野林業の中心地である川上村出身の土倉庄三郎によって考案されました。

造林発祥の地「川上村」
造林発祥の地「川上村」

森の資源を活かした生活文化

森に囲まれた吉野周辺の集落での生活に必要な道具は、自ずと森の木々を利用した物が多く、下市町の三宝(さんぼう)などに代表される曲物(まげもの)が室町中期から作られたほか、江戸中期からは全国に先駆けて、黒滝村などでは樽丸(たるまる)という樽の側板材が盛んに生産され、全国生産量のほとんどを明治期に至るまで吉野地方が担っていました。

また、傾斜地や谷間に暮らすこの地域の人々は、米作に適さない土地柄であるが故に、森の恵みに食材を求め、あるいは環境に合う作物や加工食品をつくり、食生活を充たしてきました。中でも「柿の葉寿司」は吉野川流域を代表する寿司で、柿の葉でひとくち大の鯖寿司を包んで押した夏祭りのごちそうです。

吉野の「柿の葉寿司」は熊野から運ばれた塩鯖を用いており、口に入れると柿の葉の爽やかな香りが広がりますが、森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとその心はこの「柿の葉寿司」に凝縮されているような気がします。

吉野の「柿の葉寿司」
吉野の「柿の葉寿司」

※メインビジュアルは、旧吉野材木黒滝郷同業組合事務所前に立つ平成芭蕉

寄稿者 平成芭蕉こと黒田尚嗣(くろだ・なおつぐ)クラブツーリズム㈱テーマ旅行部顧問/(一社)日本遺産普及協会代表監事

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