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浪速の娯楽の殿堂~混沌とした新世界・大阪市~ニッポンを歩こう146

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大阪阿倍野「新世界」の歴史は、1903年の第5回内国勧業博覧会が端緒となり、1912年7月に初代通天閣と遊園地ルナパークの開業に始まる。博覧会会場は天王寺公園。そして、その西側がパリやニューヨークを模したテーマパークとして作られた。大阪の新名所という触れ込みから「新世界」という名前となった。そのため、初代通天閣は、凱旋門の上にエッフェル塔を乗せた形だった。

また、1918年、南東部に飛田遊郭が開業する。すると、周辺から数多くの人が訪れるようになった。しかし、第二次世界大戦で通天閣は解体する。そして、1945年3月の大阪大空襲によって、一帯は焼け野原となった。

終戦後、いち早くジャンジャン横丁が復興。そして、1956年、二代目通天閣が誕生する。しかし、界隈にはあいりん地区の労働者が闊歩し、1961年の釜ヶ崎暴動が起きる。その結果、新世界は「怖い町」とレッテルを張られる。労働者の盛り場には、家族連れはやってこないという負の連鎖が止まらなかった。

怖い町は払しょくされ、人種のるつぼに

時を経て2000年前後、南側にスパワールドやドン・キホーテが開業する。また、映画やNHK朝ドラの舞台となり、観光地としての人気が持ち直す。一方、一帯はまるで外国のように訪日外国人が増え、人種のるつぼと化している。そして、B級グルメの代表として、串揚げなども人気がある。新世界の象徴ビリケン像の前では、記念撮影する観光客も増えている。

世代を映す鏡は、今ではプラスに働き、輝きを増している。観光地は、やはり生き物である。

(2023.01.23.撮影)

(これまでの特集記事は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=8

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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