冒頭の写真は、『粋亭の美学(2013年12月1日撮影)』
明治末期。西洋文化を積極的に採り入れたあの時代。維新実現の際には、とても想像できなかった革新的な出来事だったのかもしれない。時代は違えど、何かしら現在の状況と重複しているようにも感じる。
百年前、竣工当時
1907年。臥龍山荘竣工。ちょうど百年経った頃だったように記憶しているが、故城甲昭三・郁子さんご夫妻から保管されていた当時の写真を見せていただいたことがある。その中に完成祝を臥龍山荘で開いた際に撮影した関係者による記念の集合写真があった。確か学芸員と一緒に拝見しお二人も記憶を辿りながら、いろいろなお話を聞かせていただいたが、その集合写真の中に元々の所有者であった加藤家が写っていなかった。これは、写真の裏側にそれぞれの名前を書き込んであったことから確認できたものだが、これに少し違和感を覚えた。

持って生まれた才能からか、その人徳からか。神戸においてビジネスで頭角を表しふるさと大洲でこしらえた木蝋製品をフランスなどの海外に輸出することで財を成したオーナーの河内寅次郎。臥龍山荘は、その彼が余生をふるさとで過ごしたいという強い思いを抱いていたことから建築に至ったと聞き及ぶ。
物語は、語り継がれる

城甲家に遺されて保管されている「1890年(明治23年)第三回国内展示会 蝋部門 最高メダル受賞」のプレートが物語ることとはなにか。それは、上記受賞は本芳我家が、当時、大洲で開催された全国大会で活躍したとされる1895年(明治28年)よりも5年早く、「販売」という部分において、河内寅次郎と城甲乙吉の義兄弟がかなりの実力者であったことを物語っている。
こうした歴史的背景を紐解き、いろいろな関係者からいただいたお話しや建築としての調査結果や評価などをひっくるめて考えていくと、そこには河内寅次郎の「美」に関するこだわりのようなものが潜んでいるように感じる。特に庭園の中心に据えた十二支の石燈籠と不老庵に仕込まれた月光反射が物語る。当時、寅次郎本人は神戸におり、1897年に庭園整備を始めてからはその思いを受けた義弟の城甲乙吉と大工棟梁の中野虎雄が、多くの職人たちを上手く使いながらカタチにしていったようだ。

美学とは何か
20年にわたって撮影し、現職時代には何度も故城甲昭三・郁子さんご夫妻からお話を聞かせていただき、当時に思いを忍ばせた。撮影した写真もひとつひとつ観て撮影時のことを思い起こし、いったい「粋亭の美学」とは何なのかを考えてみる。河内寅次郎が木蝋製品を化粧品の原材料として海外に輸出したという事実から想像できる彼の美的センス。これを活かしたのが義弟の城甲乙吉と大工棟梁の中野虎雄であったとすれば見えてくるような気がする。

対岸から今日も・・・
河内寅次郎亡き後、その亡骸をどこに埋葬するかで議論があったと聞き及ぶ。最終的には臥龍山荘の四季折々の姿を黒門側から観ることができる臨済宗冨士山如法寺の登り口付近に位置する城甲家墓地で、竣工後120年が経過しようとする今日も私たちの関わり方と現在の姿を静かに見つめ続けている。次代に送り届けるべき財産はしっかり手入れして守れと諭されているような気配を感じるのだ。

(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=14
寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう) 街づくり写真家 日本風景写真家協会会員