そもそも、私が写真を撮り始めたのは、育ててくれた我が町のことを多くの方々へお伝えして知っていただきたいという思いがきっかけだった。1998年9月に官民協働で発足した大洲市中心市街地活性化検討委員会に充て職で身を置いたことで大洲市の街づくりに関わるようになっていった。
2002年4月に大洲まちの駅あさもやが完成し、観光集客交流拠点としての活用と街づくりを司る街づくり会社も同時に創立し、私も在籍して活動を始めた。
大洲の街づくり・・・肱川と城
当時は飛ぶ鳥を落とすくらいの勢いだった内子町の町並へは多くの旅行会社が道後温泉とのセットで売り出し大変な賑わいだった。その頃の大洲の街づくりの目標は、この内子町に追いつくこと。これと言って手立てがあった訳ではないのだが、私の脳裏には「肱川の自然と城のある河畔の風景」なら全国に打って出れるという妙な自信めいたものがあったと記憶している。
それまでは趣味の延長線上での写真であったし、本格的に写真について勉強したわけではなかったが、当時の仕事として「地域情報受発信基盤整備」に取組みホームページなどは、専門家に頼めば高額の費用がかかるため私が自分で制作していた。生まれたてのSNSを連携させて、これらをプラットホームとして「地域情報としての写真」を掲載して発信していくというスタイルが仕事として定着し、2008年頃から軌道に乗り始めた。
自らが撮影した写真を生かして・・・言葉を添える
頭書からホームページなどのWeb基盤も自分で制作し、ビジュアルツールについても編集は私自身が行うというのが仕事のスタイル。「街づくり」をメインの事業としている公的機関を運営していくのは至難の業だったが、売上を建てるためのメインの商品は「肱川流域の自然と城下町大洲」であり、生み出す粗利は増える観光集客。そのための材料として私が撮影する写真を限りなく生かすという取組を進めた。これは2019年3月末の退任日まで継続し、今もその延長線上で写真家活動をしている。
求められている故郷の風景とは。
観ただけで帰りたくなる町の風景とは。
目の当たりにすると涙してしまう景色とは。
SNSを通してつながっていただいている延べ12000人の方々の多くが、大洲を始めとした肱川流域や愛媛県ご出身の方々だ。撮影する時点でその写真の使い道などから逆算してシャッターを切るというのが私のスタイルだが、これは現職時代の25年間で会得し積み上げてきた撮影のノウハウである。そうした中で見えてきた被写体としての地域が持つ特色を言葉で表現するということも大切にしている。
機会をいただいたドラマの舞台・・・佐田岬半島
ホームグランドの城下町大洲の情報を発信していくというのは私の外せない基本。一方で、これまでの経験を買っていただき先頃DMO登録を果たした一般社団法人佐田岬観光公社の顧問を昨年7月から仰せつかっている。旧伊方町、旧瀬戸町、旧三崎町の3エリアが合併して現在の伊方町であり佐田岬半島だが、ここでも3地域ならではの伝統文化や海に生きる人々の独特の生活スタイル、さらには知られざる自然のいとなみに感動させられる。
これらの感動的シーンを撮影して情報発信をセットでして行くという仕事をさせていただいているが、大洲とは違って私は「よそ者」であり、撮影した写真をもってしてもなかなか受け入れられない。街づくりとはそんな苦労の連続であるのでどういうことはないが、撮影した写真と共に提案したことを否定されると写真まで否定されたということになる。
百年先も届く、今の景色を・・・
写真に対する理解は行政を含む一般の方々と我々専門家とでは大きく差がある。昨今は、動画による取組が進んではいるがそれでも写真の存在は大きい。「あの時ボクが観た景色を百年先のみんなに届けたい」という生涯の撮影テーマを掲げているが、これからも生ある限り根気強く私のスタイルを維持し続けて撮影して行きたい。
佐田岬半島への関わりと撮影から私が提案した「佐田岬ドラマ」という表現と、そのメインイメージとして考えた今年6月19日撮影の権現山からの日の出のシーンは地域内外の多くの皆様方から評価をいただいた。地域の皆さんがご存じのようでご存じなかった佐田岬半島。それをドラマとして写真で表現して理解を得るためには、まだまだ深掘りして撮影を続けいていかなければ反応は鈍い。
写真を生かした観光街づくりはまだまだ先が長そうだが、今の私はプロの写真家であるというのは崩すことのできない私の最終形である。地域へのご恩返しとお役に立てることを願って。
(つづく)
(これまでの寄稿は、こちらから) https://tms-media.jp/contributor/detail/?id=14
寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう) 街づくり写真家 日本風景写真家協会会員