都わすれ 佐藤京子女将 × 跡見学園女子大学 篠原靖准教授
訪日客数が過去最高水準で推移し、日本の観光は新たな局面を迎えている。一方で、全国の温泉地や旅館を見ると、国内外から支持を集める宿と、需要回復の波に乗り切れない宿との二極化も進んでいる。文化庁では日本の温泉文化のユネスコ無形文化遺産登録に向けた取り組みが進み、観光庁においても地域固有の温泉文化を生かした高付加価値化や地域消費の拡大が重視されている。
今回は、秋田県乳頭温泉郷「旅館妙乃湯」と、田沢湖駅から車で約30分の山深い秘湯・夏瀬温泉「都わすれ」を手がける佐藤京子女将と、内閣府地域活性化伝道師で跡見学園女子大学准教授の篠原靖氏が対談した。
宿名の由来にもなった都わすれの花言葉は「憂を忘れ、しばしの憩い、また会う日まで」。その言葉のように、日常を離れて心を整える時間を提供してきた都わすれは、なぜ多くの人を惹きつける宿となったのか。温泉、空間、料理、接客、そして女将の経営哲学を通して、予約の取れない人気宿へと成長した背景を語り合った。(6月上旬、秋田県夏瀬温泉 都わすれ 取材:ツーリズムメディアサービス代表・長木利通)

第1章 夏瀬温泉「都わすれ」とは何か 山あいに佇む“大人の隠れ家”
篠原 全国の温泉地や旅館を見ると、見事に支持を集める宿がある一方で、厳しい状況に置かれている宿もあり、二極化が進んでいます。その中で、夏瀬温泉「都わすれ」は予約が取りにくい宿として高い人気を集めています。夏瀬温泉は江戸時代から薬湯として親しまれ、明治37年に開湯した歴史ある温泉地です。乳頭温泉郷「旅館妙乃湯」の佐藤京子女将が2005年に開業して以来、多くのファンを獲得してきました。まずは、夏瀬温泉や都わすれに対する思いをお聞かせください。
佐藤 夏瀬温泉がある場所は、昔から川の中から温泉が湧き出し、真冬でも湯気が立ちのぼるようなところでした。薬湯として知られていて、私自身も子どもの頃、肌が弱くアトピー体質だったため、祖父母に連れられて何度も訪れました。ですから、この温泉には特別な思いがあります。
その後、長い間、経営者が定着しない時期が続き、「誰がやっても難しい温泉地」と言われていました。しかし私は不安を感じませんでした。この温泉の力を知っていましたし、自然環境や渓谷の景観にも大きな魅力を感じていたからです。
篠原 私自身も都わすれの大ファンですが、この宿には他にはない世界観があります。抱返り渓谷の山あいにひっそりと佇む一軒宿で、周囲には他の建物がありません。川のせせらぎと鳥の声だけが聞こえる環境で、「本当に都を忘れてしまう」ような感覚があります。
さらに印象的なのは、宿へ向かう過程そのものです。国道から山道へ入り、少し不安になるような道を進んでいく。その体験自体が、日常から離れるための演出になっています。
佐藤 よくお客様からも、そのようなお話を伺います。初めて来られる方は、本当に宿があるのだろうかと思われるようです。しかし、その道のりを越えて来てくださるからこそ、到着した瞬間にほっとしていただきたいと思っています。
私は、山の中だからといって山小屋風の宿をつくりたいとは思いませんでした。むしろ、自分の別荘に帰ってきたような感覚で過ごせる空間を目指しました。苦労して来てくださったお客様に「ここまで来て良かった」と思っていただきたい。そのためには温泉だけでなく、空間も、料理も、接客も、すべてが大切だと考えています。
篠原 まさにそこが都わすれの強みだと思います。全室源泉かけ流し露天風呂付きという設備面の魅力はもちろんですが、それ以上に、温泉、自然、空間、おもてなしが一つの物語としてつながっている。
最近は高級旅館も増えていますが、都わすれの場合は単に高級ということではなく、「わざわざここへ来る理由」が明確にある。だからこそリピーターが多く、季節を変えて何度も訪れるお客様が絶えないのだと感じています。

第2章 「都を忘れる」世界観と全室露天風呂が生み出す非日常
篠原 都わすれの最大の特徴の一つが、全室に源泉かけ流しの露天風呂が付いていることです。自分の部屋で渓谷の景色を眺めながら、好きな時間に温泉を楽しめるという贅沢があります。さらに印象的なのは「都わすれ」という宿名です。この名前そのものが宿の世界観を表しているように感じます。まずは、この宿名に込めた思いと、温泉へのこだわりについてお聞かせください。
佐藤 「しばし都を忘れてください」という思いです。日々の生活には良いこともあれば、つらいこともあります。仕事のこと、人間関係のこと、いろいろな悩みを抱えている方もいらっしゃいます。ここに来た時だけは、そうしたことを少し忘れて、心からゆっくりしていただきたい。その願いを宿名に込めました。
夏瀬温泉のお湯はとてもやわらかく、私自身も子どもの頃からその良さを感じてきました。だからこそ、その温泉を好きな時間に、誰にも気兼ねすることなく楽しんでいただきたいと思い、全室露天風呂付きにしました。
篠原 実際に宿泊すると、その考え方がよく伝わってきます。露天風呂から見える景色は本当に素晴らしく、渓谷の自然が目の前に広がっています。春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色と、一年を通じて表情が変わる。季節を変えて何度も訪れるリピーターが多い理由もよく分かります。
また、温泉地のブランド化を考えるとき、単に設備が充実しているだけでは不十分です。その温泉にどんな物語があるのか、その場所でどのような時間を過ごせるのかが重要になります。都わすれは、その部分が非常に強い宿だと感じています。
佐藤 山の自然は毎日見ていても飽きません。緑も一色ではありませんし、同じ景色は一日としてありません。季節によって草花も変わりますし、雨の日と晴れの日でも表情が違います。
私は、その自然の美しさや優しさを宿の中にも取り込みたいと思っています。温泉に入るだけではなく、窓から見える景色や、館内のしつらえ、流れる時間そのものを楽しんでいただきたいのです。お客様には「何もしないぜいたく」を感じていただきたいと思っています。
篠原 まさに都わすれの価値はそこにあります。宿へ向かう山道、山あいの静けさ、渓流の音、客室露天、料理、おもてなし。そのすべてが「都を忘れる」という一つの物語につながっています。
最近は「非日常」という言葉がよく使われますが、単に豪華な施設を造れば実現できるものではありません。都わすれの場合は、温泉、自然、空間、時間の流れまで含めて一つの体験になっている。だからこそ、国内外から多くのファンを惹きつけているのではないでしょうか。
佐藤 ここに来てくださる方の大切な時間を、私たちは預からせていただいています。その時間をどう過ごしていただくか、それをいつも考えています。帰る時に少し元気になっていただけたら、それが一番うれしいですね。

第3章 料理、おもてなし、人づくり 都わすれらしさを支えるもの
篠原 都わすれは温泉だけでなく、料理やおもてなしを目的に訪れるお客様も多い宿と聞いています。秋田県産黒毛和牛や比内地鶏、山菜、きのこ、川魚など地元食材を生かした会席料理は高く評価されているほか、「高級宿だけれど肩がこらずにくつろげる」という声も多く聞きます。料理や接客について、どのような思いで取り組まれているのでしょうか。
佐藤 この山で採れたもの、この地域で育まれたものを大切にしています。山菜一つをとっても、ただお出しするのではなく、どの器に盛れば一番美しく見えるのかを考えます。私にとって器も料理の一部です。
お客様には「ここまで来てよかった」と思っていただきたい。そのためには温泉だけではなく、お食事も大切です。都会では味わえない、この土地ならではのものを丁寧にお出ししております。
篠原 秋田の代表的な保存食である「いぶりがっこ(燻製たくあん)」を使った料理をはじめ、清流で育った川魚、秋田を代表する郷土料理のきりたんぽ、日本三大うどんの一つに数えられる稲庭うどんなど、この地域ならではの食文化が随所に感じられます。印象的なのは、そうした郷土料理をそのまま提供するのではなく、現代の旅行者にも楽しんでいただけるよう工夫しながら、都わすれらしい一皿へと昇華させている点です。地域の食文化を体験価値として提供しているところに、この宿の強みがあると感じます。
また、東京でインテリアコーディネーターとして活躍された経験が、料理や器、さらには空間全体の演出にも生かされているように感じます。料理だけが際立つのではなく、器や盛り付け、客室から見える景色まで含めて一つの世界観がつくられている。その積み重ねが、都わすれならではの魅力につながっているのではないでしょうか。
佐藤 器へのこだわりはあると思います。料理長が選んだ器でも、自分の中で何か違うと感じることがあります。料理と器だけではなく、照明や設え、窓から見える景色まで含めて、一つの世界観になっていることが大切です。
お客様には、ただお食事を召し上がっていただくだけではなく、その場の空気や流れる時間も含めて味わっていただきたいですね。そして、それ以上に大切なのは人です。どんなに良い温泉や料理があっても、お客様をお迎えするスタッフがいなければ宿は成り立ちません。だからこそ、働いてくれている人たちを大切にしています。
篠原 都わすれの口コミを見ると、スタッフの皆さんの接客を評価する声が本当に多いです。一人旅でも居心地が良かった、静かな空間でゆっくり過ごせたという声も目立ちます。人里離れた立地と行き届いたサービスが、「大人の隠れ家」という評価につながっているのでしょう。
一方で、旅館業界全体では人手不足が深刻な課題になっています。人材の確保や育成は簡単ではないはずです。
佐藤 簡単ではありません。ただ、縁があってここで働いてくださっている方たちが幸せであることが何より大切です。困ったことがあれば相談に乗りますし、その人が喜ぶことならできる限り力になりたい。そんな気持ちで接しています。
また、スタッフにはどこに住んでいても誇りを持って仕事をしてほしいので、研修旅行で東京へ行く機会をつくったり、毎日のミーティングでお客様の声を共有したりしています。良い評価をいただいた時は、みんなで喜びを分かち合うようにしています。
篠原 都わすれの魅力は、温泉や料理だけではなく、そうした人づくりにもあるのですね。料理、器、空間、おもてなし、それぞれが独立しているのではなく、「都を忘れる」という一つの世界観の中でつながっている。その一貫性こそが、多くのお客様を惹きつける理由なのかもしれません。

第4章 山深い秘湯が開業20年で人気宿に成長できた理由
篠原 温泉地のブランド化の舞台裏や、これからの旅館経営の課題について伺います。山深い秘湯である都わすれが、開業から20年を経て予約の取りにくい人気宿へと成長した理由はどこにあるのでしょうか。経営者としてのご苦労や、その根底にある考え方についてお聞かせください。
佐藤 夏瀬温泉は、以前から「どなたが経営しても難しい」と言われていた場所でした。でも、私には不安はありませんでした。不安があるのであれば、そもそも始めていませんでした。温泉に手を入れた時のやわらかい感触、豊かな自然環境、広い敷地。そうしたものを見た時に、「ここならできる」という確信がありました。
人は旅に出ることで、日常から少し離れられます。仕事や人間関係など、それぞれに抱えているものがあると思いますが、ここではそうしたことをひととき忘れ、心を休めていただきたい。その思いは開業当初から変わっていません。山の中だから不便だと考えるのではなく、この環境だからこそ味わえる時間や静けさがある。その価値をどう伝えるかを大切にしてきました。
篠原 都わすれの歩みを拝見していると、立地条件の不利さを克服したというよりも、むしろ価値へと転換したように感じます。国道から6キロ続く山道も、周囲に建物のない環境も、渓谷を望む露天風呂も、すべてが「都を忘れる」という体験につながっています。
人気宿には共通点があります。経営者の理念が、温泉や料理だけでなく、空間づくりや接客、人材育成にまで一貫して浸透していることです。都わすれの場合も、「都を忘れてほしい」という佐藤女将の思いが、宿のすみずみにまで行き届いているように感じます。
佐藤 私は小さな宿だからこそ実現できる価値があると考えています。大きなホテルでは、お客様がどのような思いで滞在され、どのようなお気持ちでお帰りになったのかを感じ取ることが難しい場合があります。その点、小さな宿であれば、お客様一人ひとりのお声や表情に触れることができます。その喜びをスタッフと共有できることも、小さな宿ならではの魅力です。
宿は建物や設備だけで成り立つものではありません。お客様とスタッフ、そして地域とのつながりがあって初めて成り立つものです。だからこそ、一人ひとりとのご縁を大切にしながら、これからも宿を続けていきたいと考えています。

第5章 今後の都わすれの未来戦略と、大切にしたいポリシー
篠原 今後の都わすれの未来戦略と、大切にしていきたいポリシーについてお聞かせください。予約の取りにくい人気宿となった今でも、さらに先を見据えたお考えがあるのではないでしょうか。
佐藤 今は、お一人おひとりのお客様を大切にお迎えすることを何より大事にしています。その姿勢はこれからも変わりません。安心して都わすれの温泉に浸かり、ゆっくりとした時間を過ごしていただきたいですね。
一方で、もっと多くの方にこの自然や温泉の魅力を知っていただきたい気持ちもあります。そのためには、アクセス環境の整備が欠かせません。山道には不安を感じる方もいらっしゃいますので、国や自治体のお力もお借りしながら、より安心してお越しいただける環境づくりを進めていきます。
また、この豊かな自然や温泉文化を海外の方にも知っていただきたいです。広い敷地がありますので、将来的にはヘリポートの整備なども視野に入れながら、新たな可能性を模索していきたいと考えています。
篠原 都わすれの魅力は、単なる温泉宿ではなく、日本の自然や温泉文化そのものを体感できる点にあります。日本の温泉文化がユネスコ無形文化遺産登録を目指す流れの中で、地域に根ざした温泉の物語を世界へ発信していく重要性はますます高まっています。
乳頭温泉郷も夏瀬温泉も、秋田の自然や歴史、文化の中で育まれてきた温泉地です。そうした地域固有の価値に共感する旅行者は、今後さらに増えていくのではないでしょうか。
佐藤 温泉は、ただ入るだけのものではありません。人を癒やし、心を休め、また明日から頑張ろうという気持ちを与えてくれる力があります。
都わすれも、そうした時間を提供できる場所であり続けたいですね。時代が変わっても、お客様の心を少し軽くできる宿でありたい。その思いを胸に、これからも歩んでいきます。

結び 「都を忘れる」一貫した世界観が、予約の取れない宿をつくった
夏瀬温泉「都わすれ」は、単なる高級旅館ではない。国道から山道を進み、ようやくたどり着く山深い一軒宿である。しかし、その道のりも、渓谷の静けさも、客室露天からの眺めも、料理も、接客も、すべてが「しばし都を忘れる」という一つの世界観につながっている。
予約が取れない人気宿となった理由は、設備の豪華さだけではない。佐藤京子女将が描いてきた「心を休める宿」という思想が、温泉、空間、料理、人材育成にまで一貫して息づいているからだ。全国の温泉地や旅館が二極化する中で、都わすれの歩みは、地域資源をどのように磨き、物語として伝え、唯一無二の宿へと育てていくのかを示している。
「しばし都を忘れる」。
その一貫した世界観と、人を大切にする経営哲学こそが、多くの人を惹きつける理由なのだろう。秋田の山あいに佇む一軒宿は、これからも訪れる人の心を静かに癒やし続けていく。