妙乃湯 佐藤京子女将 × 跡見学園女子大学 篠原靖准教授
コロナ禍を経て、日本の温泉地や旅館は大きな転換期を迎えている。訪日外国人旅行者数は4,000万人を突破し、日本の観光は新たな成長局面に入った一方で、温泉地や旅館の間では人気施設への集中と衰退の二極化も進んでいる。
このような中、秋田県の乳頭温泉郷は、日本を代表する温泉地として国内外から高い評価を受け続けている。江戸時代から続く湯治文化を受け継ぎながら、世界中の温泉ファンが憧れる存在へと成長した背景には、七つの宿が連携しながら地域全体の価値を高めてきた長年の取り組みがある。
その中心的な存在の一人が、旅館「妙乃湯」(たえのゆ)の女将である佐藤京子氏だ。女性目線の宿づくりや地域ブランドの構築、さらには後継者不足や事業承継といった課題にも向き合いながら、乳頭温泉郷の発展に尽力してきた。
今回は、長年にわたり地域連携や温泉地づくりを牽引してきた佐藤女将と、内閣府地域活性化伝道師で跡見学園女子大学准教授の篠原靖氏が、乳頭温泉郷の発展の歴史やブランド化の舞台裏、そして今後の温泉地経営の課題について語り合った。(6月上旬、秋田県乳頭温泉郷 妙乃湯、取材 ツーリズムメディアサービス代表 長木利通)

第1章 日本観光の新たなステージと地方創生 温泉地が果たす役割とは
篠原 訪日外国人旅行者数が4,000万人を突破し、日本の観光は新たな成長局面を迎えています。一方で、地方への誘客や地域内消費の拡大など、新たな課題も見えてきました。長年、地域と観光に向き合ってこられた佐藤女将は、現在の日本観光や地方創生についてどのようにお考えでしょうか。
佐藤 観光というと、人をたくさん呼び込むことに目が向きがちですが、本当に大切なのは地域の価値を知っていただくことです。秋田には田沢湖があり、ブナ林があり、四季折々の豊かな自然があります。また、その土地で育まれてきた文化や暮らしもあります。そうした魅力がありながら、まだ十分に伝わっていない地域も少なくありません。
私は以前から、地域にあるものを大切にしながら、その価値をどう伝えるかが重要だと考えてきました。新しいものをつくるだけではなく、もともとある魅力に気付き、磨き上げていくことが地域づくりの出発点だと考えています。
篠原 観光には、地域の価値を再発見する力があります。観光は経済効果だけでなく、地域の自信や活力を生み出す役割も担っています。特に温泉地は、温泉だけではなく、その土地の自然や食、文化に触れていただく場でもあります。地域の魅力を総合的に伝えられる存在だと言えるでしょう。
佐藤 コロナ禍を経て改めて感じたのは、観光は地域全体で支えるものだということです。お客様が宿に泊まれば、農家や漁業者、交通事業者、土産物店など、多くの方々にも経済効果が広がります。宿泊業は単なるサービス業ではなく、地域経済を支える重要な産業です。
だからこそ、お客様に喜んでいただくことはもちろんですが、その地域らしさを感じていただき、また訪れたいと感じていただくことが大切です。
篠原 これからの観光は、単に人数を追い求めるだけではなく、その地域ならではの価値をどう伝え、どのような体験を提供するのかが重要になります。その意味で、自然や温泉、食文化を生かしながら長年にわたって地域の魅力を発信してきた乳頭温泉郷は、日本の観光が目指すべき姿の一つを示しているように感じます。
佐藤 私たちは特別なことをしてきたわけではありません。温泉という地域の財産を守りながら、お客様に喜んでいただけることを積み重ねてきただけです。その積み重ねが地域の価値となり、今日の乳頭温泉郷の評価につながっているのではないでしょうか。

第2章 世界ブランドになった乳頭温泉郷 七つの宿が育てた唯一無二の価値
篠原 乳頭温泉郷は今や日本を代表する温泉地として国内外から高い評価を受けています。江戸時代から続く湯治文化を持ち、ブナ林に囲まれた山奥の温泉地でありながら、世界中の温泉ファンが憧れる存在となりました。
一般的な温泉地では、一つの大型旅館や有名施設が地域を牽引するケースもありますが、乳頭温泉郷は七つの宿がそれぞれ異なる個性を持ちながら、一つのブランドを形成している点が大きな特徴です。改めて、その魅力や歩みについてお聞かせください。
佐藤 乳頭温泉郷の魅力は、七つの宿がそれぞれ異なる泉質や雰囲気を持っていることです。鶴の湯温泉、妙乃湯温泉、黒湯温泉、孫六温泉、蟹場温泉、大釜温泉、休暇村乳頭温泉郷。それぞれが異なる個性を持ちながらも、同じ温泉郷として共存しています。
また、この地域には昔から湯治文化が根付いています。温泉に入り、自然の中でゆっくり過ごしながら心身を整える。そうした時間の流れが今も変わらず残っています。派手な観光施設があるわけではありませんが、それこそが乳頭温泉郷らしさであり、長く多くのお客様に愛され続けている理由なのではないでしょうか。
篠原 乳頭温泉郷を訪れるたびに感じるのは、地域全体で価値を高めてきたことの強さです。最近の観光地では施設同士の競争になりがちですが、乳頭温泉郷では「自分の宿だけが良ければ良い」という考え方ではなく、七つの宿が協力しながら温泉郷全体の魅力を発信してきました。
その象徴が湯めぐり手形や湯めぐり号といった取り組みです。宿単体ではなく、温泉郷全体を楽しんでもらうという発想こそが、乳頭温泉郷のブランド形成の原動力になってきたと言えるでしょう。
佐藤 私たちもその考え方を大切にしてきました。妙乃湯に宿泊されたお客様にも、ぜひ他の宿のお湯を楽しんでいただきたいです。七つの宿があるからこそ乳頭温泉郷ですし、それぞれに異なる魅力があります。
その象徴の一つが「湯めぐり号」です。以前は宿と宿の移動手段が限られており、お客様からも「もっと気軽に湯めぐりを楽しみたい」という声がありました。そこで温泉郷全体で話し合い、宿同士を結ぶ専用バスの運行につながりました。
篠原 今では乳頭温泉郷を代表する取り組みの一つですね。バスの屋根に大きな湯桶を載せたデザインも印象的です。
佐藤 湯桶を載せたデザインは、多くの方に乳頭温泉郷を印象付ける存在になりました。遠くから見ても「あ、乳頭温泉のバスだ」と分かりますし、お客様にも親しみを持っていただいています。こうした取り組みも、一軒の宿だけではなく、温泉郷全体で知恵を出し合いながら進めてきたものです。
韓国ドラマ『IRIS』のロケ誘致も、その一つでした。当時は地域全体で受け入れ体制を整え、多くの方々に乳頭温泉郷を知っていただく大きなきっかけになりました。一つの宿だけではなく、地域全体で動いたからこそ実現できた取り組みでした。
篠原 現在では「あこがれ温泉地ランキング」の上位常連となり、海外からの旅行者も増えています。しかし、その評価は決して一朝一夕で築かれたものではありません。七つの宿が長年にわたり信頼を積み重ね、それぞれの個性を磨きながらも、地域全体の価値向上に取り組んできた結果です。乳頭温泉郷のブランドは、一つの宿がつくったものではなく、地域全体で育ててきたブランドと言えるでしょう。
佐藤 私たちは温泉や自然という先人から受け継いだ財産を守りながら、それを次の世代へつないでいかなければなりません。乳頭温泉郷の魅力は、この土地にしかない温泉と自然、そして人の温かさにあります。その価値を大切にしながら、これからも乳頭温泉郷らしい歩みを続けていきます。

第3章 女性目線で育てた妙乃湯ブランド 「秘湯だけれど、おしゃれ」を実現した宿づくり
篠原 乳頭温泉郷の中でも、妙乃湯は特に女性からの支持が高い宿として知られています。秘湯というと、昔ながらの湯治場や素朴な山宿を思い浮かべる方も多いと思いますが、妙乃湯はどこか雰囲気が違います。
自然や温泉の魅力を大切にしながらも、館内には洗練された空気が流れ、女性一人でも安心して滞在できる。いわば「秘湯だけれど、おしゃれ」という独自の魅力を築いてきました。まずは、宿づくりに込めてきた思いをお聞かせください。
佐藤 私が妙乃湯へ戻ったのは35年ほど前ですが、その頃の温泉地は今以上に男性中心の世界でした。もちろん、それはそれで良さもありましたが、女性がもっと心地よく過ごせる温泉宿があっても良いのではないかと思ったのです。
女性は温泉だけでなく、お部屋の雰囲気や館内の設え、お料理、清潔感など、さまざまなところを見ています。そうした感覚を大切にしながら、自然や温泉という乳頭温泉郷の魅力はそのままに、女性にも安心して楽しんでいただける空間づくりを目指してきました。
篠原 実際に宿泊すると、その考え方が随所に感じられます。木のぬくもりを生かした館内や柔らかな照明、渓流を望む空間には、自然と調和した上質さがあります。また、妙乃湯には「金の湯」と「銀の湯」という二つの自家源泉がありますね。
佐藤 はい。妙乃湯の大きな特徴の一つです。金の湯は赤褐色で体の芯から温まるような力強さがあり、銀の湯は無色透明で肌になじむやわらかな泉質です。同じ宿の中で異なる泉質を楽しめることは、お客様にも喜んでいただいています。
さらに、先達川沿いに広がる露天風呂からは四季折々の景色を楽しむことができます。私たちにとっては当たり前の景色でも、初めて訪れる方にとっては特別な景色です。だからこそ、宿が前に出るのではなく、この土地が持つ魅力を感じていただくことを大切にしています。
篠原 妙乃湯は接客面の評価も非常に高いですね。「女性一人旅でも安心できる」「清潔感があって居心地が良い」「何度でも帰ってきたくなる」といった声が多く見られます。乳頭温泉郷には個性豊かな宿がありますが、その中でも妙乃湯は秘湯の魅力を残しながら快適性や洗練を両立させてきました。乳頭温泉郷の中で独自のポジションを確立してきたことが、多くのお客様に選ばれ続ける理由なのでしょう。
佐藤 私は特別なことをしているつもりはありません。ただ、お客様の立場になって考えることを大切にしてきました。自分が泊まりたいと思える宿であること。心地良く過ごしていただける空間であること。その積み重ねが今の妙乃湯のかたちにつながっています。
篠原 乳頭温泉郷には、それぞれ異なる個性を持つ宿があります。その中で妙乃湯は、「秘湯の魅力」と「快適性や洗練」を両立させることで独自のブランドを築いてきました。地域ブランドは一軒一軒の宿が個性を磨くことで育まれます。妙乃湯の歩みは、乳頭温泉郷が世界ブランドへ成長した理由の一端を示していると言えるでしょう。

第4章 後継者不足と事業承継 乳頭温泉郷を守るための挑戦
篠原 乳頭温泉郷というと、日本を代表する人気温泉地として華やかなイメージがあります。しかし、その舞台裏では全国の温泉地と同じように、後継者不足や事業承継という課題にも直面しています。
実際、全国では経営が成り立っていても後継者が見つからず廃業する旅館が少なくありません。そのような中で、乳頭温泉郷では孫六温泉や大釜温泉の再生にも取り組まれてきました。まず、地域としてどのような考え方で課題に向き合ってきたのでしょうか。
佐藤 後継者不足は、乳頭温泉郷だけでなく全国の温泉地が抱える共通の課題です。温泉旅館はやりがいのある仕事ですが、責任も大きく、誰もが同じ道を選ぶわけではありません。ただ、私は以前から「宿の問題は宿だけの問題ではない」と考えてきました。乳頭温泉郷は七つの宿が集まって一つのブランドを形成しています。そのため、一軒の宿がなくなることは、その宿だけでなく、温泉郷全体の魅力や価値にも影響します。
現在、大釜温泉についても新たな体制のもとで再生に向けた取り組みを進めていますが、その背景にも「地域の財産を次世代へつなぐ」という考え方があります。事業承継は、個別の経営課題としてではなく、地域全体で考えるべき課題として向き合ってきました。
篠原 乳頭温泉郷の強みは、温泉郷全体を一つの共同体として捉えていることです。全国では後継者不足を理由に廃業する旅館も少なくありませんが、乳頭温泉郷では個々の宿の課題を地域全体の課題として共有してきました。その姿勢があったからこそ、事業承継という難しいテーマにも地域として向き合うことができたのでしょう。
佐藤 私たちは昔から共存共栄を大切にしてきました。もちろん、それぞれの宿が努力することは必要です。しかし、自分の宿だけが良くなればいいという考え方では、乳頭温泉郷というブランドは維持できません。地域全体が良くなることで、それぞれの宿も良くなる。その考え方が根底にあります。そうした考え方があるからこそ、事業承継についても個々の宿だけの問題ではなく、地域全体で向き合うべき課題として考えてきました。
また、ブランドを守るということは、昔のまま残すことではありません。温泉そのものの価値や自然環境、湯治文化、静かな時間といった乳頭温泉郷らしさは守り続けなければなりませんが、一方で建物の安全性やサービス、予約システム、情報発信などは時代に合わせて進化させる必要があります。変えるべきものは変え、守るべきものは守る。その積み重ねが、地域の価値を未来へつないでいくのです。
篠原 乳頭温泉郷の歩みを見ていると、ブランドとは単に知名度を高めることではなく、その価値を次の世代へつないでいくことなのだと感じます。後継者不足や事業承継は、これから全国の温泉地が避けて通れない課題です。乳頭温泉郷が築いてきた取り組みは、多くの地域にとって大きな示唆を与えているのではないでしょうか。
佐藤 乳頭温泉郷は、先人たちが守り育ててきた場所です。私たちはその財産を預かっている立場に過ぎません。だからこそ、自分たちの代だけで終わらせるのではなく、次の世代へしっかり引き継いでいく責任があります。地域のみんなで力を合わせながら、これからも乳頭温泉郷の価値を守り続けていきます。

第5章 乳頭温泉郷の未来と新たな挑戦 温泉文化を次の世代へ
篠原 乳頭温泉郷は、日本を代表する温泉地として確固たるブランドを築いてきました。一方で、人口減少や後継者不足、インバウンド対応など、温泉地を取り巻く環境は大きく変化しています。
近年は日本の温泉文化をユネスコ無形文化遺産へ登録しようという動きも進んでおり、温泉が持つ文化的価値にも改めて注目が集まっています。そのような中で、乳頭温泉郷の未来についてどのようにお考えでしょうか。
佐藤 私は温泉を単なる観光資源だとは考えていません。昔から人々は温泉に入り、身体を休め、心を整えてきました。時代が変わっても、その本質的な役割は変わらないと思っています。だからこそ乳頭温泉郷も、単なる観光地としてではなく、人が心から安らぎ、再び前を向く力を得られる場所であり続けたいですね。
これからは若い世代や海外の方にも、この地域の魅力をもっと知っていただきたいと考えています。乳頭温泉郷には豪華な施設や派手なアトラクションがあるわけではありません。しかし、豊かな自然があり、温泉があり、人の温かさがあります。そうした、この土地ならではの価値を大切にしながら未来へつないでいきたいです。
篠原 今後の観光を考えるうえでも、その視点は非常に重要だと思います。世界的に見ても、旅行者が求めるものは均質なサービスではなく、その土地にしかない体験へと変わりつつあります。
乳頭温泉郷には四百年以上続く湯治文化があり、ブナ林に囲まれた自然環境があります。そして七つの宿がそれぞれの個性を磨きながら共存してきた歴史があります。そうした地域固有の価値こそが、これからの観光においてさらに大きな強みになっていくのではないでしょうか。
佐藤 乳頭温泉郷は先人たちが守り育ててきた場所です。私たちはその財産を預かっている立場に過ぎません。だからこそ、自分たちの代で終わらせるのではなく、次の世代へしっかり引き継いでいかなければならないと思っています。
変えるべきところは変えながらも、守るべきものは守る。その姿勢を大切にしながら、地域の皆さんと力を合わせ、これからも乳頭温泉郷の価値を次の世代へつないでいきたいです。

結び 七つの宿が育てた世界ブランド
乳頭温泉郷は、単なる人気温泉地ではない。
ブナ林に囲まれた自然、四百年以上受け継がれてきた湯治文化、そして異なる個性を持つ七つの宿。それぞれが独自の魅力を磨きながらも、「乳頭温泉郷」という一つのブランドを育ててきた。
その背景には、宿同士が競争だけではなく共存共栄を大切にし、地域全体の価値向上に取り組んできた歴史がある。後継者不足や事業承継といった課題に向き合いながらも、地域の財産を次世代へつなごうとする姿勢は、多くの観光地にとって示唆に富むものだ。
乳頭温泉郷の魅力は、温泉だけではない。自然、人、文化が織りなす時間そのものにある。秋田の山あいに広がる七つの湯は、これからも訪れる人を癒やし、日本の温泉文化を未来へとつないでいく。