世界自然遺産・知床
読者の中には知床を訪れた方も多いと思う。知床半島は北緯43度56分から北緯44度21分に位置し、フランスのボルドー(北緯44度51分)やイタリアのベニチア(同45度26分)より南に位置するが、流氷が接岸する世界で最も低緯度な季節海氷域である。

2005年7月には流氷が育む豊かな海洋生態系と原始性の高い陸域生態系の相互関係に特徴があること、シマフクロウ、シレトコスミレ等の世界的な希少種やサケ科魚類、海棲哺乳類等の重要な生息地を有すること等が評価され世界自然遺産に認定されている。知床半島は途中から道路も港も無くなり、知床岬の近くに漁船の避難港があるくらいだ。
陸路においては、よく知られた日本百名山の羅臼岳や硫黄岳には登山口や登山道が整備されているが、さらに奥に入る知床半島の先端部や知床岳方面には登山口も、整備された登山道も一般的な登山地図も一切ない。また半島域はヒグマの高密度生息地であり、遭遇するリスクが極めて高い。

半島先端部への陸路からのアクセスとなると半島東岸の相泊からの海岸沿いトレッキングに限定されるが、15kg前後の装備を背負い、岩礁帯の海岸でゴロタ石と呼ばれる大きな丸い石で覆われた石浜を歩かねばならない。下手に挟まると骨折の危険もある。また、巨岩帯や岩壁が立ちはだかり、高さが100mにもおよぶ岩壁では懸垂下降の技術がないと難しい。迂回するには干潮時に顔を出す岩礁を歩く手段もあるが、満潮時には水没し通過できないこともあり、潮位計算などの高度な技術が必要となる。泳いで渡ることも不可能ではないが、岩礁に打ち寄せる波は見た目よりもはるかに大きく、波に飲み込まれることもある。さらに知床の海は冷たく、夏でも水温が15度以下、時には10度以下になることもあり体力を奪われるリスクもある。
https://www.env.go.jp/park/shiretoko/guide/sirecoco/treakking/index.html
海路からのアクセスでは、動力船での上陸は一切禁止されているので(漁船や許可を得た調査船が避難港に入港する以外)、半島に海から上陸できるのはシーカヤックくらいしかない。
3月の連休の頃だったか、10数年来の友人から声がかかった。初夏に知床岬をシーカヤックで目指さないかと。 彼は若い頃から世界に目を向けて、訪れた国は80数カ国・700都市以上、南極にも調査船で上陸した猛者でもある。グローバルに持続可能な観光についてさまざまな活動を行っており、国際機関の役員や審査員も歴任し、わが国においても観光庁のアドバイザーを務めている。知床は日本が世界に誇れるワールドクラスの自然遺産だと彼は言い、「なかなか行けないぞ、一生の思い出になるよ」との誘い文句で参加することとなった。彼から送られてきた書類には以下の記載があったが、一筋縄でいかない困難さも参加への決め手となった(以下抜粋)。
シーカヤックで知床岬を目指します。知床半島先端部は世界遺産に登録されており、動力船での上陸はNG。シーカヤック等人力だけで到達することで上陸が可能となり、原始本来のワイルドキャンプを体験できます。また、海洋プラスチック、浜に打ち上げられた漁具等を資源回収し、それらを容器・アクセサリー等に商品化、販売することも視野に入れた環境教育・責任ある参加者が集うツアーです。知床産を中心とした北海道産食材を惜しみなく使った食事も楽しみのひとつです。
先端部地区は、国立公園計画上の「利用施設計画」がなく、歩道や車道など一般の公園利用のための施設が設けられていないほか、知床森林生態系保護地域として「自然の推移に委ねる」地域とされているなど、制度上一般の利用者による積極的な利用は想定されていない地域です。そのうえ刻々と変化する海況や風況、低い海水温や高密度なヒグマの生息等極めて厳しい自然条件が存在する地域であり、一般的な利用に関する安全性や快適性は全く保証されません。
また、先端部地区に立ち入る「利用者」は、これら過酷な条件に自らの力だけで対処できる極めて高度な技術と体力及び判断力が求められ、全ての行動に自己の判断が要求され、その結果は全て自己の責任に委ねられることを十分に自覚することが求められます。
■自然環境への配慮
先端部地区の原始的な自然環境が損なわれることのないよう、「利用者」は自然環境の保護に対する意識を高く持ち、自然環境へのインパクトを最小限にするよう努めること。
■他の「利用者」への配慮
次に訪れる「利用者」が先端部地区ならではの静寂かつ原始的な自然体験が味わえるよう、利用の痕跡を残さず来た時と同じ状態にすること。また、他の「利用者」の静寂かつ原始的自然体験を損なうような行為は行わないこと。
■動力船による上陸禁止
動力船による上陸利用は、貴重な植物群落や野生鳥獣の生息地である知床岬一帯の自然環境を保護するため行わないこと。
■自己責任
先端部地区は、整備された道等の施設はないうえ、極めて厳しい自然条件が存在する地域であり、これら過酷な条件に自らの力だけで対処できる極めて高度な技術 と体力及び判断力が求められ、また、その結果は全て自己の責任に委ねられることを十分に自覚すること。なお、事故が発生した場合は、連絡手段や避難・通信設備は整っておらず、救助の際には莫大な費用と時間を要するだけでなく、生死にかかわる状況になることを認識すること。
またこれを読んで筆者は20年近く前に観た米国映画「Into The Wild(邦題 イントゥ・ザ・ワイルド)日本公開は2008年」を思い出した。
優秀な成績で大学を卒業した主人公の22歳の青年は、物質主義で偽善的な両親に嫌気が差し、自分の名前を捨てて所持金を全て寄付し、家族にも行き先を告げずに放浪の旅へ出る。各地でさまざまな人々と出会いながら北上を続け、最終的に「究極の自由」を求めアラスカの荒野へ単身で分け入る。彼は放棄された古いバスを拠点とし自給自足の生活を始めるが、やがて厳しい自然の前に食糧難と孤立に陥り、ついに帰らぬ人となってしまう。
この話は実話で、遺体がバスの中から発見され、彼が残した日記をもとにノンフィクションが刊行され映画になった。彼をやさしく迎え入れた美しいアラスカの大自然が豹変し、徒歩で簡単に渡れた川も激流となって彼の前に立ちはだかる映像を筆者は今でも思い出すことができる。この青年ほどの覚悟はみじんもないが、まさにInto the Wildを体験するのは今しかないと思った次第だ。
知床でのシーカヤック
知床でシーカヤックを漕ぐとなると、自前で運んできたカヤックを漕ぎだす以外は、現地でお願いするしかない。通常は日帰り3時間のコースがメインとなっているようだ。今回は、主催者である友人のほかに参加者5人、同行するガイド3人の計9人、サポートしてくれる漁船一隻というチームでウトロ港外れの浜から漕ぎ出し4泊、上陸して半島先端部を回り、最後はカヤックを漁船に積んで帰ってくるというもの。全行程約65km 。こうした取り組みも4年ぶり。ガイドさんが言うには知床にはカヤックツアーの事業者が3人おられるそうだが、こうした大掛かりなものを定期的にやっているところは皆無で、今回のようなケースや、学術調査などで都度、対応されているらしい。
旅の醍醐味はその準備から始まるとお考えの方も多いかもしれない。今回は筆者にとって縁遠いアウトドアの世界。過去に職場の人間に誘われてスキューバダイビングの免許を取得し、その後、何度か沖縄・座間味の海で潜ったことはあるが、おそらくそれ以来のアウトドアだ。困るのが装備品。この先続けるかどうか分からないことから、一式をそろえるのはためらう。だいたいダイバー初心者でもゴーグル、シュノーケルとフィンの3点は買いそろえるそうだが、筆者の場合は、ビーチサンダルを新調しただけ。結局、そのあと転勤などもあり、今ではライセンス証をどこに仕舞っているか分からないという有様で結果的にはそろえずに済んだ。
しかし、今回はカヤックで荒れると恐ろしい海に漕ぎ出し、ヒグマが生息する陸地へ上陸となるので最低限の装備はきちんとしておかないと生命にかかわる。さすがにダイビングの時のようにはいかないと、友人から提供された必須装備品リストをもとに、カヤックに収まる容積にいかに小さくまとめるか、AIにもアドバイスを求めながら装備品を引き算しながらなんとかまとめた。友人からは、出発前の装備品チェックで多かったら置いていくだけだからと言われていたが、なんとかクリアした。それでも友人からは多いと言われたが。
漕ぎ出した先には
漕ぎ出す前にはヒグマに遭遇した際の対処方法や熊避けスプレーの操作法もひととおり教わった。とはいえスプレーは、きわめて至近距離でヒグマの顔面に向けて噴射しないと効果がない。焦ってそんな操作ができるとはとても思えない。そんなときが来ないことを祈るばかりであった。カヤックは2人乗りの計5艇。これらに9人が分乗した。筆者は前席で、後席にはベテランのガイドさんがスキッパー(舵取り)として乗り込んだ。これから5日間、このクルーで協力しあいながら岬を目指すこととなる。
カヤックは気象条件に大きく左右される。風が強く波が高いと横転するリスクも高まる。知床岬を目指すには、2日目にルシャ沖という難所を通らねばならない。ここは知床連山のちょうど切れ目にあたり、半島の反対側から吹く強風が抜けて海面に吹き付け、最悪の場合には小型エンジンがついた船ですら渡ることは不可能だ。ここを越えない限りは先に進めない。
幸いなことに漕ぎ出した3日間は、ガイドさんが驚くほど海は静かで湖面のようで無事にルシャ沖を渡ることができた。オホーツク海というと荒々しいイメージだが、こうした大人しい姿も見せてくれるそうだ。

ツアーと言いながら、実際には参加者全員で協力しあい、共同装備品も互いに分配して搭載していった。当然ながら積み荷が重くなればそれだけ漕ぎ手の負担は増す。キャノピーに入りきれない荷物はカヤック上に搭載するが、その分、風の抵抗が増し、漕ぐにも力が要る。上陸後の水汲みから、飲み水の浄化作業も全員で手分けして行った。知床の大地から注がれる川水には重篤な感染症を引き起こすキツネを媒介としたエキノコックスが含まれているため、汲んだ水も全て浄化しないと飲み水にならないためだ。足場の悪いゴロタ石の海岸を重たい水を抱えて歩くのは想像以上に神経と体力を消費した。

上陸する際は、目視でのヒグマの存在確認に加えて、轟音玉という免許がないと使えない凄い爆発音のする花火を鳴らして上陸者それぞれが大声(奇声?)を発して人間の存在を示しながら上陸しなければならないし、上陸後もこの発声は続く。カヤックを満潮時に流されない地点まで皆で引き揚げていくのもチーム作業だ。上陸してゆっくり腰を下ろす暇はない。周囲にヒグマの痕跡がないか、確認が必須だ。上がってみたら、まだ新しいクマの糞やしゃぶり尽くされた骨と顔の表皮だけ残った鹿の死骸もあり、彼らの生息地にいる緊張感が絶えずあった。

ルールは足跡以外何も残さない、臭いもできるだけシャットアウト。残飯は無論のこと自身の排泄物も全て持ち帰る。自身の排泄物の入ったパックをまたカヤックに積み込んでいくのはなんとも言えない。
とはいえオホーツク海と陸地の息を呑む大パノラマ。しかも人が辿り着けない断崖絶壁の下を10〜100mの距離で漕ぐわけだ。見たものしか味わえない絶景であった(観光船は近寄れない。観光船沈没事故は沖合1kmの地点)。

3日目、50kmほど漕いでくると、風がやや強くなり海面にも波が立つようになってきた。この先は風もさらに強まり波が高くとてもカヤックでは知床岬までたどり着くことが無理なことが、予報と漁船からの連絡でも明らかになり、今後の対応も検討すべく上陸することとなった。 岬まであとわずかな地点まできていたので海路から岬を目指せないのであれば、上陸地点から岬へ陸路で到達することも視野にいれた。
ところが上陸地になんと!トドの死体が漂着しており、凄まじい腐臭を放っていた。ヒグマの嗅覚は鋭く、数キロ先から嗅ぎ分けるそうで、まだどこも食い荒らされていないこのトドは彼らから見たら久しぶりのご馳走だ。早晩ヒグマがやってくるのは明らかであり、そこに居合わせることは、彼らから見たら「ご馳走を横取りしにきた敵」とみなされかねず、非常に危険である。このリスク判断から漁船にカヤックを回収してもらい母港に戻ることとなった。ヒグマがトドに食いつく姿を見たい気もしたが、ヒグマが徘徊しているところからカヤックを漕ぎだすこともできない。適切なリスクマネジメントであった。
ただ一生の思い出になるよという友人が語る通り、海と潮風と原生林の山々、当然ながら人工物の明かりが一切ない満天の星空には魅了された。また多くの動植物にも出会い、ウミネコの卵を狙う天然記念物のオジロワシをウミネコがチームプレイで追い払うシーンや、オジロワシが魚を捕らえる瞬間など。ご一緒した大学教授の方はまさにオジロワシの生態も研究されていて捕食の瞬間をこんなに間近で見たことがないと感激されていた。上陸地ではカヤックを出して釣ってきた真ホッケを串焼きに。さらに、ガイドさんが用意してくれた東京ではとてもありつけない道産の食材の数々は、あまりのおいしさに思わず顎が外れそうになった。

一方で、今回の目的のひとつは持続可能な自然環境をこの目で見ることであった。雄大な自然だが、気候変動は知床にも押し寄せ、生態系が変わってきている。このオホーツク海でフグやブリ、それに真鯛が揚がっているそうだ。道南の函館では伊勢海老も揚がったらしい。昆布も減り、そのためウニも獲れなくなっている。
こうした変化は、海辺の風景にも表れていた。 昔は漁船の性能が悪く、漁師たちは船着き場のある番屋を半島の浜辺に建て、寝泊まりをしながら漁をしていたという。しかし今では、その多くが使われなくなって廃屋と化し、近年は昔では考えられないような高波によって崩落している番屋もあった。また、海洋ごみもかなりの量で、漁具は仕方ないにせよ、ペットボトルやタイヤ、靴まで打ち上げられていた。今回は引き返したため海洋ごみの回収こそできなかったが、ひとりひとりの心がけでごみを減らすことの大切さを改めて痛感した。

2日早く帰港したため、そのあとは海釣りを楽しみ、最終日は知床五湖のトレッキングに出かけた。環境省が知床の生態系を守るため、相当な努力を払っている。五湖では、自然環境や生息している動植物の生態をわかりやすく紹介するフィールドセンターが設けられ、無料で歩ける約800mの高架式遊歩道と、実際に五湖畔を歩いて回る3kmの遊歩道が整備されている。五湖畔の遊歩道の方は時間指定制(有料)だが、訓練を受けたガイドが必ず同行し、ヒグマ遭遇時の対処法について説明を受けたうえで森へ入る。高架式遊歩道は、ヒグマがよじ登ってこないように電気柵で囲われていた。
筆者はカヤックのメンバーとともに森に入ったが、ヒグマが食い散らかし、踏みつけていた水芭蕉の葉っぱと足跡も見られた。水芭蕉の葉には強力な下剤作用があるそうで、ヒグマは冬眠明けに腹にたまった排泄物を出すために好んで食べるそうだ。湖面には睡蓮が咲き誇っていたが、実は国立公園に認定される前に移植されたそうで、これが元来の生態系と景観を脅かすことからこの排除に現在では相当苦労されているといった話も聞けた。このように自然環境や生態を後世に残すために不断の努力をされていることも知った。
一方で知床の人気スポットである五湖には大手の旅行会社が企画募集した団体が大型バスでやってくる。しばらく観察していたが、誰ひとりフィールドセンターには寄らず、真っすぐ高架式遊歩道に歩み、最後は物販店で買い物をしてバスに戻っていく。この素晴らしき景観や生態を後世につなぐためにも、来訪者が学び理解し自分事として何ができるか考えることが大事ではないだろうか。 そのためにも、観光産業が持続可能なものであるためにも、観光事業者自らが持続可能な責任ある観光を目指すべきだと改めて痛感した。
今は東京に戻りこの原稿に向き合っているが、なんともいえない知床ロスである。ふだんアウトドアとは無縁の私がいきなりこんな世界を体感し次はどこに行けば良いのか。
参考 環境省・知床世界遺産センター https://policies.env.go.jp/park/shiretoko/whcc/
寄稿者 中村慎一(なかむら・しんいち)㈱ANA総合研究所主席研究員