悠久の歴史を刻み続けるアンコールワット。その壮大な姿を前にすると、多くの人は圧倒的な感動を覚えます。朝日に染まる中央祠堂、回廊に刻まれた精緻なレリーフ、そして数百年の時を超えて今なお残る石造建築群。アンコールワットは、誰もが一度は訪れてみたいと願う世界遺産の一つです。
しかし、DMO(観光地域づくり)の視点でシェムリアップを歩くと、感動の先にもう一つの問いが見えてきます。「この価値を未来へどう引き継いでいくのか」という問いです。
第1回では、空港から始まる観光体験について考察し、第2回ではアンコールワット、アンコールトム、タプローム、ベンメリアを巡りながら観光動線の重要性について見てきました。最終回となる今回は、シェムリアップの遺跡群を支える観光持続性と、今後の観光地域づくりの可能性について考えてみます。

世界遺産が抱える課題
アンコール遺跡群は、カンボジア最大の観光資源であり、シェムリアップ経済を支える重要な存在です。世界中から多くの観光客が訪れ、その経済効果は地域に大きな恩恵をもたらしています。しかし、観光地としての地位が確立すればするほど、新たな課題も生まれます。人が集まれば地域経済は活性化します。一方で、遺跡への負荷や混雑の発生、体験価値の低下、さらに観光消費が特定エリアに集中することによる地域格差なども生じます。観光地にとって本当に難しいのは、人を呼ぶことではなく、人が訪れ続けても、その価値が損なわれない状態を維持することではないでしょうか。
実際にアンコールワットを訪れると、立入制限や動線管理、保全作業などが日常的に行われています。観光客から見ると不便に感じることもありますが、それらは世界遺産を守るために欠かせないことです。観光振興と文化財保全。この二つをどのように両立するかが、シェムリアップにとって大きなテーマになります。

遺跡を守ることは、地域を守ること
アンコールワットの回廊を歩いていると、文化遺産としての重みを強く感じます。目の前にある石造建築の多くは、800年以上前に築かれたものです。私たちにとっては数時間の観光体験であっても、遺跡にとっては長い歴史のほんの一瞬に過ぎません。だからこそ、世界遺産の保全は観光地経営の根幹となります。
しかし、ここで重要なのは、遺跡だけを守ればよいわけではないということです。シェムリアップの街を歩いていると、トゥクトゥクのドライバー、ガイド、レストランの従業員、ホテルスタッフ、土産物店の店主など、多くの人々が観光によって生計を立てていることが分かります。つまり、アンコールワットの価値を守ることは、地域で暮らす人々の生活を守ることにもつながっています。
DMOの考える持続可能性とは、単なる環境保全ではありません。世界遺産、地域住民、観光客の三者が共存し続けられる状態をつくることです。どれか一つだけを優先しても、観光地としての持続可能性は維持できません。

ベンメリアが示す分散観光の可能性
今回訪れた遺跡の中で、持続可能性の視点から特に印象的だったのがベンメリアでした。
アンコールワットやアンコールトムに比べると知名度は高くありません。しかし、森に包まれた遺跡空間には独特の魅力があり、探検するような体験が残されています。ベンメリアを訪れて感じたのは、シェムリアップの未来は「分散観光」に大きな可能性があるということでした。
観光客が、アンコールワット周辺だけに集中し続ければ、混雑は増し、遺跡への負担も高まります。また、体験そのものも画一化してしまいます。一方で、ベンメリアのような周辺資源へ観光客の流れが広がれば、地域全体で観光の恩恵を共有することができます。滞在時間の延長、消費機会の拡大、地域内での経済循環の促進。分散観光は単に混雑を緩和するためだけではなく、地域全体の価値を高めるための戦略でもあるのです。アンコールワットだけで完結する観光から、シェムリアップ全体を楽しむ観光へ転換が、今後の大きな鍵になると感じました。

シェムリアップの「遺跡観光地」からの進化
今回の滞在を通じて印象的だったのは、シェムリアップには遺跡以外にも多くの魅力が存在していることでした。夜になるとパブストリートには多くの観光客が集まり、ナイトマーケットは活気にあふれています。レストランでは伝統舞踊のアプサラダンスが披露され、食文化や芸能文化も観光資源の要素となっています。
つまりシェムリアップには、世界遺産だけでなく、地域文化、食、ナイトライフ、地域コミュニティという多様な資源が存在しています。これからの観光地域経営において重要なのは、アンコールワットだけに依存しない観光地づくりです。世界遺産を入口としながらも、街全体へ回遊を広げ、滞在価値を高めていく積み重ねが、持続可能な観光地域へとつながっていくのではないでしょうか。

「未来への投資」としての観光
三回にわたってアンコールワットをテーマに考察してきました。「空港から始まる観光体験」、「遺跡群を結ぶ観光動線」、そして「世界遺産を未来へつなぐ持続可能性」、これらのテーマは、一連のストーリーとして深くつながっています。
受入環境の整備、観光客の回遊設計、文化遺産の保全。そのすべてがつながることで、観光地域づくりは成立します。DMOの役割は、単に観光客を集めることではなく、その全体を見渡しながら地域の未来を設計することにあります。シェムリアップの遺跡群は、世界に誇る文化遺産であると同時に、持続可能な観光地域経営を学ぶための優れた教科書でもありました。
観光は、単に場所を訪れることではなく、その土地の歴史や文化、人々の暮らしと出会いながら、その価値を未来へ引き継ぐ営みに参加することです。アンコールワットの壮大な姿は、私たちにその本質を静かに語りかけているように感じます。
寄稿者 三宅康之(みやけ・やすゆき) (一社)天王洲・キャナルサイド活性化協会 / 会長